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書道用語辞典Japanese Calligraphy Words
あざな
字というのは、本名のほかにつける名のことで、通称として使われるものです。中国では、本名は諱<いみな>といい、本名で呼ぶのは失礼にあたるとされました。日本においても天皇や貴人の本名を避ける習慣から、男子は元服<げんぷく>(成年になったことを示す儀式)すると字を付け、以後、他人からは字によって呼ばれました。
また字と同じく、本名を避けるために、号や官職などによって呼ばれることがあります。例えば、王羲之<おうぎし>は王右軍<ゆうぐん>(右軍将軍であった)、顔真卿<がんしんけい>は、顔魯公<ろこう>(魯郡公であった)・顔平原<へいげん>(平原太守であった)と呼ばれます。
あしで
葦手
かなの書体の一種と考えられますが、定説がなくはっきりしたことは分りません。現存するものから考えると、文字と絵を組み合わせて水辺の景などを表わしたもので、葦手で歌を書いたものもあったようです。「葦手下絵和漢朗詠集<したえわかんろうえいしゅう>」「平家納経<へいけのうきょう>」などの遺品があります。
いしずり
石摺
石摺というのは、石碑などのような石に刻した文字を紙に写し取ることを意味する我が国の言葉で、拓本<たくほん>と同義語です。
いたいじ
異体字
異体字というのは、同一の文字でありながら形の違う文字のことをいいます。俗字といわれるものも異体字の一種と考えられます。なお、旧字体(正字とも)と新字体で形の異なるもの(聲と声、など)がありますが、これは異体字とはいいません。
例えば、島は嶋とも書きますが、嶋は島の異体字となります。次に、いくつかの異体字の例を挙げてみます。
傑―杰 恥―耻 昏―書 杯―盃 沈―沉 爾―尓 梅―楳 牀―床 棲―栖 煙―烟 珍―珎
いちぎょうしょ
一行書
一行書というのは、文字どおり一行に書いた条幅の書のことです。半切に一行書を書く場合は四文字から七文字位が普通です。また半切の縦半分の聯<れん>に一行書を書くことがあり、この場合は、聯を二枚並べて多くは対句(対になった漢詩句)を書きます。これは、対聯あるいは楹聯<えいれん>といいます。楹とは柱のことで、左右の柱に懸けて対の形にしたのものです。よく寺院の本堂正面にある左右の柱に懸かっているのを見かけます。
いつえいひ
乙瑛碑
乙瑛碑は、後漢<ごかん>時代の永興元年(153)に建てられたもので、漢代の隷書碑の代表的な名品です。この碑は、八分<はっぷん>という、左右に開いた形の波法の美しい書体で書かれたものです。
その書は構えががっしりとして大きく、力のこもった書で、隷書学習に最適です。乙瑛碑と呼ばれるのは、孔子廟に百石卒史という役人を置くなどすることを、乙瑛が取り次いだ顛末が書かれていることによります。
いっきゅうそうじゅん
一休宗純
一休宗純(1394~1481)は室町時代の禅僧(臨済<りんざい>宗)で、号は狂雲子といい、後小松天皇の皇子ともいわれます。
一休は名利<めいり>(名誉や利益)を求めず、権力にも屈せず自らの信念に基づき行動したため当時は奇行の僧と見られていたようですが、その底には当時の腐敗した仏教界に対する批判精神があったといわれます。
また、僧でありながら妻帯し実子の存在も知られています。しかし、このような人間味溢れる一休の姿から後世、頓智に優れた「一休さん」の物語が生まれ、現在でも人々に親しまれています。
一休の書はその性格からか極めて個性的で、筆力が強く切れ味の鋭い線に特徴があります。
いっさいきょう
一切経
一切の仏教経典の総称です。それには、三蔵といわれる経(仏の教え)・律(仏徒の戒律)・論(経典の注釈)と、それぞれの注釈などが含まれます。その数は、唐時代(730年)の『開元釈経録<かいげんしゃっきょうろく>』によれば、五〇四八巻となっています。我が国の奈良時代においては、一切経が二十回書写されたことが知られます。
また、この一切経を一人で書写した人が歴史上に二人いますが、それは藤原定信(1088~1154?)と良祐(1159~1242)です。藤原定信は二十三年間で、良祐は四十二年間で書写しています。
いっぽんきょう
一品経
仏教経典、いわゆるお経はそれぞれ巻数で数えます。たとえば般若心経は一巻、大般若経は六百巻、法華経は八巻です。そして、それをさらに細かく章や節に分けたものを品<ほん>といい、一つのお経を一つひとつの品ごとに何人かで分担して書写することを一品経といいます。
特に平安時代に法華経を書写することが流行し、多くの一品経の遺品が現存します。因みに、法華経は二十八品に分かれます。代表的なものに、平清盛が厳島神社に奉納した平家納経があります。
いのちげ
命毛
命毛とは、筆の鋒先(先端)のことです。毛筆の中心となる最も大切な部分で、筆の性能を左右するところです。
いひつ
異筆
異筆というのは、肉筆で書かれたものの中に混じっている違う人の筆跡のことで、別筆<べっぴつ>ともいいます。有名な高野切<こうやぎれ>は、『古今和歌集』全巻を三人の異筆によって書写されたものです。また、写本の本文中や奥書などに後から書き入れたものなども異筆といえます。
いぼく
遺墨
遺墨とは、亡くなった方が生前に書いた書画のことで、遺された筆跡を意味します。故人の筆跡を集めた展覧会は遺墨展、その作品集は遺墨集といいます。
いりん
意臨
書道の学習方法の一つに、手本を横に置いてその字形や筆使いを真似る臨書<りんしょ>がありますが、字形を忠実に真似るものを形臨<けいりん>といい、手本の精神や筆意を汲むことに重点をおくものを意臨といいます。
また、臨書を何回もした後に、手本を見ないで記憶によって臨書することを背臨<はいりん>といいます。
いれん
意連
二つ以上の文字を続けて書くことを連綿<れんめん>といいますが、実際に線で繋がらなくても意<こころ>を繋げて書くことを意連といいます。つまり、実線で繋がっていなくとも気持ちを切らないで書くということです。
いろは
伊呂波
日本語のかな四十七文字のすべてを一字も重複することなく使った文のことで、空海(774~835)の作だと伝えられてきましたが、平安時代・十世紀ころに作られたと推定されています。
全文は、「いろはにほへとちりぬるを、わかよたれそつねならむ、うゐのおくやまけふこえて、あさきゆめみしゑひもせす」ですが、その意味は「色は匂へど散りぬるを、我が世誰ぞ常ならむ、有為の奥山今日越えて、浅き夢見じ酔ひもせず」というもので、仏教経典の中にある「諸行無常<しょぎょうむじょう>、是生滅法<ぜしょうめっぽう>、生滅滅已<しょうめつめつい>、寂滅為楽<じゃくめついらく>」の意を詠んだものといわれます。
いわやいちろく
巌谷一六
巌谷一六(1834~1905)は明治時代の書家です。代々藩医の家に生れ自らも医師として家業を継ぎましたが、明治初年に官僚となり、同二十四年には貴族院議員となりました。書は十代から中沢雪城(幕末三筆の一人である巻菱湖の弟子)に学び、明治十三年に来日した楊守敬<ようしゅけい>の許へ【日下部鳴鶴】<くさかべめいかく>らとともに訪ねて教えを受け、一家を成しました。
いんく
印矩
書作品に印を押すことは意外に難しいことで、印面に均等に印泥が付いていても押し方によって一度では印影にムラができることがあります。印泥の付きをよくするため、再度押印するときに印影のずれを防ぐための用具が印矩で、L字型とT字形の二種類があります。
使い方は、押印して印を紙から離す前に印矩を印にあてて印矩を固定して(手で押さえて)印を離します。印泥の付きが悪いときには、押さえた印矩にそって同じ位置に押印すれば印影がずれることがありません。なお、印矩は片面が面取<めんとり>(角張った部分を少し平らに削ること)してありますので、その面を紙にあてて使用してください。そうしないと印矩に印泥が付着して紙を汚してしまうことがあります。また紙の下に薄い小冊子などを敷くと印がきれいに押せます。
なお実際に印を押すときには、押す位置が最も重要ですので、慣れてくれば押す位置がすぐわかるようになりますが、慣れるまではいきなり印を押さずに、印を別の紙に押したものを切り取って作品にあてて印の位置を決めるとよいでしょう。
いんげん
隠元
隠元(1592~1673)は、中国明時代の禅僧(臨済<りんざい>宗)ですが、江戸時代初期に日本に来朝して帰化し、京都・宇治に黄檗<おうば>く山万福寺を建立して、我が国の黄檗宗の開祖となりました。
万福寺ではすべて中国風だったようで、江戸時代の菊舎<きくしゃ>(1753~1826)という女流俳人に「山門を出れば日本ぞ茶摘み歌」という句があります。
隠元をはじめとする中国の僧には、詩文や書に優れた者が多く、当時の我が国の文化に大きな影響を与えましたが、特にその書は中国明時代の書風を伝え、のちの唐様流行の基礎となりました。特にこの隠元と弟子の木庵・即非の三人を「黄檗三筆」といいその書は珍重されます。
また、隠元豆<いんげんまめ>はこの隠元が日本にもたらしたものだといわれています。
いんざい
印材
印に使用される材料のことです。石材・水晶・木・竹根・銅・象牙・玉などがありますが、普通雅印の材料としては石材が一般的です。
いんしゅいん
引首印
引首印というのは、書道の作品の右上部に押捺する印で、多く長方形のものが使用されますが、楕円形のものなどもあります。別に、関防印<かんぼういん>ともいわれます。引首印には、主に成語が刻されます。
いんでい
印泥
書作品に印を押すときに使う印肉のことです。朱肉ともいいますが、普通の認印などを押す場合に使う朱肉とは違います。印泥は朱の顔料と油と艾<もぐさ>とを調合したもので、中国製と日本製がありますが、中国製の方が繊維が緻密で使いやすいようです。市販されているものも中国製が多く、光明<こうみょう>・美麗<びれい>・箭鏃<せんぞく>などという銘柄が一般的です。
印泥は蓋付の陶製の器に入れられています。買ったそのままではあまり印泥が印面に付きませんので、平らな状態になっているものを付属のプラスチック製の小さなヘラでよく練って丸い団子状にして印泥が付きやすくすることが必要です。基本的に使用する前には練り直すようにするとよいでしょう。
印泥の器を手に持った方が使いやすく、一度ではうまく印泥が付きませんので、ある程度の印泥が印面に均等に付くよう何回か繰り返すことが必要です。
うじばしだんぴ
宇治橋断碑
大化二年(646)に、道登という人が宇治橋を造ったことを記した碑で、江戸時代の寛政三年(1791)に碑の上部三分の一が出土したのでこの名があります。その書は、中国・六朝風の大変立派なものです。
うたあわせ
歌合
基本的には、左右一首ずつ歌を合わせて判者<はんじゃ>が判じてその優劣を競い勝負を決するものです。記録に残る最古の歌合は、仁和年間(885~889)の「民部卿<みんぶきょう>歌合」ですが、平安時代に盛んに行われました。一首ずつの組み合わせを一番とし、小さいものは数番から大きなものは千五百番というものまであります。
平安時代の貴族たちにとって歌合は大きなウェートを占めていたようで、『百人一首』四一番・壬生忠見<みぶのただみ>の「恋すてふわが名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひそめしか」の歌は、同四〇番・平兼盛の「しのぶれど色に出でにけりわが恋はものや思ふと人の問ふまで」と合わされましたが、平兼盛の歌が勝ちとなったため、壬生忠見は悲嘆のあまり死んでしまったという話があるほどです。
うらうち
裏打ち
書画を掛け軸や額装にするため、或いは保存のために、作品の本紙の裏に和紙を貼ることです。裏打ちの紙には、薄美濃紙や鳥の子など薄手の上質のものが使われます。裏打ちをすると皺しわや折り目などもなくなり丈夫になることから、物事がしっかりしているさまを「何々に裏打ちされた」と表現しますが、この言葉はここからきています。
うんぴつほう
運筆法
運筆法というのは、筆の運び方・使い方で、指・肘・腕などからだ全体を使って筆を運ぶことをいいます。これに対して、用筆法は一点一画の起筆・送筆・収筆の筆使いをいいますが、一般に混同されることがあります。
また、筆の持ち方を執筆法といい、この三つ(運筆法・用筆法・執筆法)は密接に関係しています。
えいじはっぽう
永字八法
「永」の字に八つの点画が全て含まれているとして、その用筆を示したものです。
八つの点画というのは、側<そく>・勒<ろく>・弩<ど>・趯<てき>・策<さく>・掠<りゃく>・啄<たく>・磔<たく>です。
えいんがきょう
絵因果経
釈迦の前世での物語などを説いた『過去現在因果経』を書写したもので、普通の写経とちがい、上段に絵が描かれ、下段に経文が書かれた、絵巻形式の写経です。
現存する遺品は奈良時代に書写されたもので、絵は彩色が施され文字も優れた美しい経巻です。
えんけん
円硯
円硯というのは、円形の【硯】のことで、円面硯<えんめんけん>ともいいます。市販されているのは円周に縁<ふち>があるものが普通で、大量に墨を磨るのに適しており、自動墨磨り機によく使われます。
えんぴつ
円筆
筆管(筆の軸)を紙面に垂直にあてて鋒先<ほさき>を点画の中に隠すようにして運筆すると、点画は丸みを帯びます。このような筆使いを円筆といいます。円筆で書かれた文字はゆったりとした大らかな感じを受けます。
これに対して、筆管をやや傾けて鋒先を外に出す方筆<ほうひつ>で運筆すると、点画は角ばった感じになります。
円筆で書かれたものの代表に北魏時代の鄭道昭<ていどうしょう>の鄭羲下碑<ていぎかひ>などがあります。
おいえりゅう
御家流
鎌倉時代末から南北朝時代の人である尊円親王<そんえんしんのう>(伏見天皇の皇子)が創始した書流である尊円流(青蓮院<しょうれんいん>流とも)が江戸時代になると御家流とよばれて普及しました。幕府の公文書はすべてこの御家流で書かれ、寺子屋などでの手習いの手本もこの書風でした。
おうぎし
王羲之
王羲之(307~365・異説あり)は、中国・東晋時代(312~420)の書家で、字<あざな>は逸少<いつしょう>、右軍<ゆうぐん>将軍であったことにより王右軍とも呼ばれます。王氏一族は漢時代以来の名家で、東晋の建国にも功績があり、東晋においては名門として権勢を誇っていました。
しかし、王羲之は中央の官に就くことをせず、右軍将軍・会稽内史となり浙江省の紹興に赴任しました。有名な蘭亭叙<らんていじょ>(行書)は、この地の蘭亭で行われた宴で書かれたものです。
王羲之の書として伝わるものには、蘭亭叙のほかに小楷<しょうかい>(細字の楷書)に楽毅論<がっきろん>・黄庭経<こうていぎょう>草書に十七帖<じゅうしちじょう>、行書に集字聖教序<しゅうじしょうぎょうじょ>などがあります。

王羲之の書の影響
王羲之の書は、遣唐使船によって日本にもたらされました。奈良・東大寺に伝わる「東大寺献物帳<とうだじいけんもつちょう>」には、多くの王羲之の書が記録されており、奈良時代の我が国の書に最も影響を与えています。光明皇后<こうみょうごう>が書いた「楽毅論」は、王羲之の楽毅論を臨書したものです。
また、平安時代の三跡の一人・小野道風<おののみちかぜ>(894~966)の書いたものの中に、王羲之の書に非常によく似た文字があります。
おうけんし
王献之
王献之(344~388)は王羲之の第七子で、字<あざな>は子敬<しけい>です。父と同じく書に優れ、羲之を大王、献之を小王といい、合わせて二王<におう<と呼ばれます。
献之は羲之の子としてその才能を受け継いだのか、若くして書の名手との評判がありました。ある時献之が書の稽古をしている後ろから羲之がその筆を取ろうとしたところ、
しっかり持っていて抜けなかったので、羲之が感心して、この子は将来書で名を上げるだろうといったという逸話が伝わっています。その書といわれるものに、楷書に洛神賦<らくしんのふ>、行草書に中秋帖<ちゅうしゅうじょう>・鴨頭丸<おうとうがん>帖などがあります。
おうたく
王鐸
王鐸(1592~1652)は中国、明・清時代の書家で、字<あざな>は覚斯<かくし>です。王鐸は、細楷<さいかい>(細字の楷書)は魏の鍾繇<しょうようを>、行草書は晋の王羲之・王献之父子を学び、勁<つよ>い筆力による個性的で奔放な書を数多く遺しました。
また、王鐸が明朝の遺臣でありながら清朝に仕えたことから二朝に仕えたとして、宋・元二朝に仕えた趙子昂<ちょうすごう>同様、その行いを批難する者もあります。その書は魅力に富み、わが国にも多数の追随者を輩出しました。
おうばくりゅう
黄檗流
江戸時代初期に日本に来朝して黄檗宗を開いた、隠元<いんげん>をはじめとする黄檗宗の僧たちによって広められた中国・明の書風です。黄檗僧の中でも特に隠元・木庵<もくあん>・即非<そくひ>の三人は黄檗三筆と称されその書は珍重されました。
この黄檗流の基となっているのは、文徴明<ぶんちょうめい>・董其昌<とうきしょう>ら明時代の書家たちの書です。また黄檗流の書の広まりがきっかけとなって、のちに唐様書道が流行することになります。江戸唐様書の祖といわれる、北島雪山<きたじませつざん>(1637~1697)は黄檗僧から直接書を学んだようです。
おうようじゅん
欧陽詢
欧陽詢(557~641)は、隋・唐時代の書家です。欧陽が姓、詢が名で、字<あざな>は信本<しんぽん>、唐太宗<たいそう>の太子率更令<たいしそっこうれい>という官に就いたことから、欧陽率更とも呼ばれます。欧陽詢は虞世南<ぐせいなん>・遂良<ちょすいりょう>とともに、初唐三大家に数えられています。
欧陽詢は、楷・行・草・篆・隷すべてよくしたと伝えられますが、特に楷書に優れ、九成宮醴泉銘<きゅうせいきゅうれいせんめい>は一代の傑作で、楷書の極則<きょくそく>といわれています。
その他、楷書に化度寺塔銘<けどじとうめい>・皇甫誕碑<こうほたんひ>、行書に史事帖<しじじょう>・千字文<せんじもん>などがあります。欧陽詢の書は、遣唐使船によって早くから我が国にもたらされたようで、奈良・平安時代の書にその影響が見られます。
おうらいもの
往来物
手紙文の形式を用いて、文字や社会生活に必要な知識を教える、習字のための教科書です。「往来」には、「交通・たより」といった意味があります。平安時代末期から作られていますが、最も多く作られたのは江戸時代で、寺子屋での教育に使用され数千種類にも及んだようです。
その内容は、日常用いることのできる手紙文例集、一年十二か月に配して手紙文の模範を示したもの、手紙文によく使われる語句・短文を集めたものなどです。
おおじょうむ
大聖武
『賢愚経』という経を書写したもので、聖武天皇の宸翰<しんかん>(天皇自筆の筆跡のこと)と伝えられる奈良時代の写経です。一般に写経は一行十七字に書写するのが通例ですが、これは一行十二~十三字で字粒が大きく書も優れていることから「大聖武」と呼ばれます。

書かれている紙も、表面に漉き込まれた粉末が荼毘<だび>に付した骨に見えることから「荼毘紙<だびし>」といわれ、奈良時代以外には見られない特殊なものです。また、荼毘紙に書かれた写経は江戸時代以降、この「大聖武」と書風が違っても聖武天皇の筆跡と考えられ、字の大きさによって「中聖武」「小聖武」と呼ばれます。
おとこで
男手
男手は、かなの書体の一種で、我が国の言葉を表記するために漢字を一字一音に当てた万葉仮名<まんようがな>が作られましたが、その文字を楷書や行書で書いたものをいいます。別に真仮名<まがな>ともいわれます。
男手は、漢字が男性の使用する正式の文字とされていた平安時代の呼び名で、十世紀の『宇津保<うつほ>物語』では、仮名の書体の一つとして挙げられています。遺品としては、伝藤原道長<でんふじわらのみちなが>筆「神楽和琴秘譜<かぐらわごんひふ>」や伝宗尊親王<むねたかしんのう>筆「催馬楽譜<さいばらふ>」などがあります。
おどりじ
踊り字
踊り字というのは、同じ文字の繰り返しを示す符号で、別におくり字・かさね字ともいいます。漢字の場合は「々」、かなの場合は「ゝ」等があります。

現在の一般的な表記では「々」しか使われませんが、書の作品にはしばしば踊り字が見られます。特にかな作品の場合には、同字の繰り返しが多くありますので、踊り字がよく使われます。
おののみちかぜ
小野道風
小野道風(894~966)は、平安時代中期の能書家<のうしょか>(書のうまい人のこと)で、三跡<さんせき>の一人として知られています。和様書の祖といわれており、名の「道風」は「とうふう」とも読みます。
我が国では、奈良時代から平安時代初期にかけては、王羲之<おうぎし>を中心とする中国書法が全盛でしたが、道風は王羲之の書法を基としながらも、独自の書法を加味して和様書を創始しました。
道風の生まれた寛平六年(894)は、菅原道真<すがわらのみちざね>の意見によって遣唐使が廃止された年にあたり、以後それまでの中国文化の影響から脱して我が国独自の文化が花開いてゆきます。和様書の祖といわれる道風が、奇しくもその年に生まれていることは何かの符号のようにも思えます。
道風の書は、ゆったりとした暢びやかな線と、優雅な字形に特徴がありますが、『源氏物語』(絵合)に「手は道風なれば、今めかしうをかしげに、目も輝くまで見ゆ」(書は道風であるから、現代風で見た目にも美しく、目もまばゆいばかりに見える)と記され、当時の人々に大いに歓迎されたことがわかります。道風の書の遺品として、「三体白氏詩巻<さんたいはくししかん>」「屏風土代<びょうぶどだい>」「玉泉帖<ぎょくせんじょう>」などがあります。
おりがみ
折紙
折紙とはもともとは文書の使用形式の一つで、中央で横に二つ折りとし、折り目を下にして右から書き始め裏に続けて書くものです。裏に書く場合も折り目を下にするので、開いてみると折り目を境にして前半と後半は天地が逆になります。
公式の文書・消息<しょうそく>(手紙のこと)・目録などに使用されるほか、鑑定書にも使われました。このため、のちには折紙といえば鑑定書のことを指すようになり、さらにはそこから転じて物事を保証するものという意味で使われるようになりました。書跡の折紙の場合、鑑定品目・筆者などを記し、真跡であることを保証する文言を書いて日付を書き、署名・判をしています。
一般に言われる、「折紙を付ける」あるいは「折紙付」というのは、そのものが間違いなく良いものであるという表現です。
おりほん
折本
折本とは、長い紙を折り畳んで作る、製本の一つの形式です。巻物形式の巻子本<かんすぼん>と違い、どこの部分でも簡単に開いて見ることができる点が特徴で、手本などの製本に向いています。
おんなで
女手
女手というのは、かなの書体の一つで、普通に「かな」という場合はこの女手を指します。つまり現在の平がな及びその他の変体がなに当たります。[[万葉仮名]]を草書で書いたものが「草かな」で、それをさらに書き崩して簡略化したものが女手で、その成立については、九世紀から十世紀にかけて生み出されたと考えられています。
この間の事情を推察することのできる遺品に、まず貞観九年(867)の「讃岐国司解有年申文<さぬきのこくしのげありとしもうしぶみ>」があり、これは草かなで書かれています。もう一つは寛平九年(897)ころに書かれたと思われる「周易抄<しゅうえきしょう>」(伝宇多天皇筆)で、「は・ふ」などすでに現在の平がなに近い形のものも見られますので、これ以後「かな」が急速に発達していったと考えられています。
さらに、紀貫之<きのつらゆき>(?~946)自筆の「土左日記」を、藤原定家<ふじわらのさだいえ>(1162~1241)が忠実に臨書したものが残されていますが、それを見るとほぼ現在の平がなに近い形のかなで書かれていることがわかります。
この女手の最も完成された姿を見ることができるのは、十一世紀半ばに書写されたと考えられる「高野切古今集<こうやぎれこきんしゅう>」「粘葉本和漢朗詠集<でっちょうぼんわかんろうえいしゅう>」などです。
かいし
懐紙
懐紙というのは、「ふところがみ」ともいわれるように、束ねた紙を懐中に携帯したことから名づけられたもので、べつに折り畳んで所持したので「たとうがみ」(畳紙)ともいわれます。懐紙の用途は、詩や和歌を書くための料紙、宮廷の公事におけるメモ用紙、手紙の用紙などがあります。
現存する最古の懐紙の遺品に、藤原佐理<ふじわらのすけまさ>(944~998)筆「詩懐紙」(969年書写)があります。また現在ではかな作品を書くときに多く用いられます。
かいしょ
楷書
点画を崩さずに書く書体で、漢字の標準字体として使用される書体です。別に真書<しんしょ>・正書<せいしょ>ともいいます。
楷書の成立については、その発生が五世紀のはじめのころと考えられ、同世紀終わりから六世紀初期にかけての、龍門造像記<りゅうもんぞうぞうき>や鄭道昭<ていどうしょう>によってほぼ完成し、七世紀・初唐の三大家の出現によって洗練され頂点に達しています。
かいそ
懐素
懐素(生没年未詳)、俗姓は銭氏、字あざなは蔵真<ぞうしん>で、懐素は僧としての名です。幼少のころより仏門に入りましたが、傍ら学書に励み郷里では草書に巧みな少年僧として知られました。のち諸国を遊歴して古人の書を見て見聞を広め草書を大成しました。その書は草書をさらに崩した狂草といわれるもので、少し前の張旭<ちょうきょく>と並び称され、「張顛素狂<ちょうてんそきょう>」といわれます。その書といわれるものに、「自叙帖<じじょじょう>」「草書千字文<せんじもん>」などがあります。
かいわんほう
廻腕法
廻腕法とは腕法の一つで、親指と他の四本の指とで筆管を挟んで持つ方法で、特殊なものです。腕を大きく廻し、親指と人差し指の上を水平にし、肘ひじも水平にして半円形に張り出す形で、筆が体の正面にくるようにします。
この執筆法は、明治のはじめに来朝した中国の楊守敬<ようしゅけい>によって伝えられたもので、我が国の日下部鳴鶴<くさかべめいかく>らが用いました。
かおう
花押
花押は書判<かきはん>ともいわれ、現在のサインに当たります。平安時代の中ごろに始まったと考えられ、自署を草書で書いたものをさらに崩して書いたものが初期の花押で、これを草名体<そうみょうたい>といいます。
他に名の二字の一部や偏と旁を組み合わせて作られる二合体<にごうたい>、名の一字を用いて作った一字体<いちじたい>、名に関係なく作られる別用体<べつようたい>、中国明朝に始まったといわれる明朝体<みんちょうたい>があります。また、花押は現在でも使用されており、内閣の閣議書には全閣僚が花押をもって署名しています。
かけじく
掛軸
掛軸は書画を軸物に表装したもので、床の間や壁面に掛けて鑑賞するものです。掛物<かけもの>ともいいます。掛けない時には巻いておけるので、額と違って保管に場所をとらないという利点があります。
掛軸などの表装の技法はもともと中国から伝わったものですが、我が国の床の間などの形式に合わせたものになっていったようです。掛軸の形式にはいろいろなものがありますが、茶室に掛けるものについては茶掛<ちゃがけ>といいます。千利休<せんのりきゅう>は、茶道の道具の中で掛物が一番大切なものであると言っています。
また、掛軸は桐箱に入れて保存されることが多く、この箱に筆者などの名を書くことを箱書<はこがき>といいます。
がごう
雅号
本名・字<あざな>のほかに付ける別名で、本来はただ号といいますが、他人の号の尊称として雅号といいます。書道の上級者になると号を持つ人が増え、自分で考える人もいますが、書の師匠に付けてもらうことが多いようです。
書の作品には署名として号(雅号)を書くことが多いのですが、写経の場合は号ではなく本名を書きます。
かごじ
籠字
優れた書跡の上に薄い紙を載せ、文字の一点一画の外辺を細い線で写し取ることですが、写し取った文字のこともいいます。

この方法によってできた籠字の中を墨で塗りつぶして、原本とそっくりな書跡を作る複製法は双鉤填墨<そうこうてんぼく>(籠字に写し取り〈双鉤〉、墨で塗りつぶす〈填墨〉)といい、中国から伝えられた技法です。
明治時代に日本に来朝した中国の楊守敬<ようしゅけい>が、中国の碑などから集めた文字に我が国の多胡碑<たこひ>の文字を加えて編集した楷書の字典である『楷法遡源<かいほうそげん>』は、この籠字によって文字が収録されています。
がさん
画賛
画の余白に書き加える詩句や文章のことです。その画を褒<ほ>め称<たた>えるものや、画の内容の補足や説明などで、単に賛ともいいます。
賛には画の作者以外の場合と作者自身のものがありますが、作者自身のものは自画賛或は自画自賛といいます。自分自身を褒めることを自画自賛するというのはここからきています。
かしょうき
何紹基
何紹基(1799~1873)は清<しん>時代後期の人で、字<あざな>は子貞<してい>、東洲<とうしゅう>・叟<えんそう>と号しました。唐<とう>の顔真卿<がんしんけい>をはじめ、北魏<ほくぎ>の書ならびに周<しゅう>・秦<しん>時代の篆<てん>書、漢時代の隷<れい>書などを学んで一家をなしました。行草書に多くの優れた作品を残しており、切れ味のよい線と、独特の字形に特徴があります。
がせんし
画仙紙
書画を書くための紙で、他に画箋紙・雅仙紙とも書きます。いわゆる条幅の紙です。中国製と日本製のほか韓国製・台湾製のものもあります。中国製のものでは安徽省宣州<あんきしょうせんしゅう>で作られるものが最も有名で、宣紙<せんし>といい、また日本で画仙紙を作るときの手本にしたため本画仙とも呼ばれます。
画仙紙には、大きさによって大画仙・中画仙・小画仙がありますが、普通画仙紙といえば小画仙のことを指します。
かたかな
片仮名
「かな」の一種で、主として漢字の部分(偏<へん>・旁<つくり>・冠<かんむり>など)を使って日本語の音<おん>を表したものです。「片」は漢字の一部(片方)あるいは不完全の意です。平安時代初頭に漢文を訓読するために漢字の傍らに書いたものが始まりと考えられています。初期のころの片仮名にはさまざまな字体が見られます。

かっぴつ
渇筆
筆に含ませた墨の量が少なくなり線がかすれたものをいいます。これに対して墨量があってかすれのないものを潤筆<じゅんぴつ>といいます。
がとうぶん
瓦当文
屋根を葺<ふ>く軒丸瓦の先端の円形または半円形の部分を瓦当といい、そこに施された文字を瓦当文といいます。また文字だけでなく、動物や樹木の文様のものもあります。
その書は篆書をもとにしたもので、「千秋萬歳」「長楽未央」などの吉祥文字が多く見られ、円または半円の外形に合わせて文字を巧みに造形しており、印の文字とはまた違った面白さがあります。

かな
仮名
「かな」は中国から渡来した漢字を一字一音に使って我が国の言葉を書き表したものです。五世紀ころから固有名詞を表わすために使われはじめましたが、『古事記』においては普通名詞や動詞にも使用され、『万葉集』において多用されたので「万葉仮名<まんようがな>」と呼ばれます。この「万葉仮名」を草書で書いたものが「草仮名<そうがな>」で、それをさらに書き崩して簡略化したものが現在の「平がな」をはじめとする「かな」です。
「万葉仮名」は千字近くもありますが、平安時代に「かな」として使われた文字は二百六十字ほどで、一つの音について数字あり、この「かな」の元となった漢字を字母<じぼ>といいます。例えば、「あ」という音に対しては、「安・阿・悪・愛」の四文字があり、「安」は平がな「あ」の字母です。
このようにして平安時代に生れた「かな」は各時代を通じて使用されてきましたが、明治三十三年の小学校令で、一音に対して一字のかなを使うということが決められました。これが現在使われている「平がな」です。そしてこの「平がな」以外の「かな」(「あ」でいえば「阿・悪・愛」)は「変体がな」と呼ばれるようになりました。
かみ
紙は、中国で発明されたもので、火薬・羅針盤・印刷とともに中国の四大発明といわれるものです。
千字文に「恬筆倫紙<てんぴつりんじ>」とあるように、紙は後漢<ごかん>時代の蔡倫<さいりん>が造り、元興元年(105)に献上したもの(蔡侯紙<さいこうし>と呼ばれたといいます)が最初の紙といわれてきましたが、現在ではそれより以前にすでに紙があったことがわかってきました。


【紙の歴史】
最も古い紙の遺品は、中国の西域・ロプノールから出土した、4×10cmの麻質の小紙片で、一緒に出土した木簡<もっかん>(薄く削いだ木片に文字を書いたもの)に黄龍元年(BC49)の年号があり、その頃のものと思われます。
また、他にも後漢時代の永元年間(89~104)のものと思われる紙も発見されていますので、蔡倫より以前に紙があったことがわかり、現在では蔡倫は紙の改良に功績があったのではないかと考えられています。
二十世紀のはじめに、ヨーロッパや我が国から中国の西域に調査団が派遣され、晋<しん>時代(265~420)や南北朝<なんぼくちょう>時代(420~589)の紙の遺品が多く発見され、この当時はすでに沢山の紙が作られ、使用されていたことがわかりました。
このような中の一つに、我が国の大谷探検隊が発見した「李柏文書<りはくもんじょ>」がありますが、これは西域の役人であった李柏の手紙で、東晋<とうしん>時代の咸和三~五年(328~330)の頃のものと考えられています。


【紙の種類】
現在、書道用紙には、条幅用の画仙紙<がせんし>(雅仙紙とも)、半紙、料紙などがあります。画仙紙・半紙は、中国製(唐紙<とうし>、宣紙<せんし>・本画仙とも)・日本製(和紙)・韓国製・台湾製のものがあります。料紙は和紙で作られ、多くかなや写経を書くときに用いられます。

画仙紙
まず、中国製の画仙紙(宣紙)から見てみます。
1.単宣<たんせん>
一枚漉きの紙で、単仙・単箋とも書きます。普通に画仙紙といえばこの単宣を指します。
2.夾宣<きょうせん>
単宣を重ね合わせたもので、二層夾宣・三層夾宣があります。
3.玉版宣<ぎょくばんせん>
単宣を厚くしたもので、表面に光沢があります。宣紙の中でも質の高いものです。
4.羅紋宣<らもんせん>
紙を漉<す>くときの簀<すのこ>の目が模様となっているもので、単宣より薄いものです。
日本製のものは和画仙といいますが、これは産地によって分けられ、主なものに
1.因州<いんしゅう>画仙(鳥取県)
2.甲州<こうしゅう>画仙(山梨県)
3.伊予<いよ>画仙(愛媛県)
などがあり、それぞれ書き味が異なります。
また、画仙紙の表面にいろいろな加工を施した加工紙があります。加工紙には、かな書き用に墨の滲みをなくしたもの(単に加工紙と呼ばれる)、さまざまな色に染め虎の皮のようなまだら模様のある虎皮箋<こひせん>、或は紙の表面に絹の織物のような織り目をつけた絹目箋<きぬめせん>などさまざまなものがあります。

半紙
半紙についても、中国製・日本製・台湾製などがありますが、日本のメーカーの製品が圧倒的に多いようです。半紙には漢字用とかな用があり、また、機械漉きと手漉きに分けられます。機械漉きは練習用としてはよいのですが、清書用・作品用としてはやはり手漉きのほうが線に深みが出ます。

料紙
料紙は和紙で作られ、さまざまな加工が施されたものがあり、多くかなの作品に使用されます。
1.唐紙<からかみ>
紙の生地に胡粉<ごふん>と呼ばれる白い顔料<がんりょう>を塗り、その上に膠<にかわ>で溶いた雲母<きら>(うんも)の粉で型文様を摺<す>り出したものです。また、雲母を用いずに版木の上に紙を置いて空摺<からずり>によって文様を浮き出させたものを箋<ろうせん>といいます。
2.雲紙<くもがみ>
紙の天地に藍色・紫色に染めた繊維を雲形に漉き込んだものです。
3.墨流し紙
水面に墨を滴らせ、流れた墨の模様を紙を伏せて写し取ったものです。
4金銀箔紙<きんぎんはくし>
紙の表面に金箔や銀箔を押したものです。


【紙の形式】
現在の書作品の一般的な形式である条幅の大きさの基本は画仙紙の全紙<ぜんし>といわれるものです。
1.全紙
普通全紙といわれるのは、小画仙紙のことで、縦136cm×横70cmのものです。
2.半切<はんせつ>
半折とも書き、全紙を縦半分に切ったもので最も一般的な形式です。
3.聯<れん>
半切を縦半分に切ったもので、全紙の四分の一の幅のものです。
4.聯落<れんおち>
全紙から聯を切り落としたもので、全紙の四分の三の幅となります。
なお、聯二枚を対にしたものを対聯<ついれん>といいます。
また、この他展覧会の作品用にさまざまの大きさの紙が市販されています。


【紙の数え方】
画仙紙は全紙百枚を一反<たん>といい一包みになっていますが、半切に切ったものも売られています。また、半紙は二十枚を一帖<じょう>といい、百帖で一締<しめ>(一〆)といいます。

からかみ
唐紙
唐紙は、もともとは「唐の紙」で、中国製の紙をいいます。特に平安時代に将来<しょうらい>(もってくること)された装飾紙のことを指します。
紙の生地の上に胡粉<ごふん>(貝殻を焼いて作った白い粉)や胡粉に顔料を混ぜたものを塗り(具引<ぐび>き、という)、その上に膠<にかわ>で溶いた雲母<うんも>(きら)の粉で文様を摺<す>り出したものです。また雲母を使わず、具引きした紙を版木に表を上にして置き、空摺りして摩擦によって文様を出したものを箋<ろうせん>といいます。
亀甲<きつこう>・七宝繋<しつぽうつなぎ>・唐草<からくさ>・菱襷<ひしだすき>などの文様があり、「粘葉本和漢朗詠集<でっちょうぼんわかんろうえいしゅう>」「寸松庵<すんしょうあん>色紙」「元永本<げんえいぼん>古今集」などが代表的な遺品です。
からすまるみつひろ
烏丸光広
烏丸光広(1579~1638)江戸時代初期の公卿で、書と歌に優れていました。特に書は寛永の三筆とならび称される能書<のうしょ>として知られています。
また和歌は細川三斎<ほそかわさんさい>から古今伝授<こきんでんじゅ>(『古今和歌集』中の或る語句の解釈に関する秘説などを特定の人に伝授すること)を受けています。
その書は、筆力が強く切れ味のよい線に特徴があり、豪快で奔放な作品を多く遺しています。
からよう
唐様
日本風の書である和様に対して、中国風の書のことを唐様といいます。江戸時代初期に来朝した中国の禅僧・隠元<いんげん>をはじめとする黄檗僧<おうばくそう>たちは書に巧みで、その影響によって中国・明時代の書が流行し、特に文徴明<ぶんちょうめい>や董其昌<とうきしょう>、及び文徴明が範とした元時代の趙子昂<ちょうすごう>の書風が流行しました。
我が国の唐様の書家としては、北島雪山<きたじませつざん>・細井広沢<ほそいこうたく>・荻生徂徠<おぎうそらい>・新井白石<あらいはくせき>らがいます。
はじめは儒者や文人の間に流行しましたが、やがては町人にも広まりました。その様子を詠んだ川柳に「売家<うりいえ>と唐様で書く三代目」というものがあります。三代目になると教養として唐様も書けるようになったのですが、家業のほうはうまくいかず、家を売る羽目になってしまったというものです。
かんえいのさんぴつ
寛永三筆
桃山時代から江戸時代初期に活躍した能書家のことで、近衛信尹<このえのぶただ>(1565~1614)、本阿弥光悦<ほんあみこうえつ>(1558~1637)、松花堂昭乗<しょうかどうしょうじょう>(1584~1639)の三人を指します。
近衛信尹は近衛家の当主として関白にまでなった公卿で、力強い豪放な書を遺しています。
本阿弥光悦の本業は刀剣の磨礪<とぎ>・目利<めきき>(鑑定)などですが、書のほか陶芸・蒔絵の技にも長じ、大胆で変化に富んだ書で知られます。
松花堂昭乗は真言宗の僧ですが、書に巧みで画家としても優れ、穏やかで流麗な書を書きました。
かんかけっこう
間架結構
間架は点画と点画の間隔のとり方であり、結構は点画を組み合わせて字形をまとめることをいいます。これは楷書を主として考えられています。点画の間隔のとり方は字形のまとめ方にも通じるものですので、合わせて間架結構といわれます。
がんしんけい
顔真卿
顔真卿(709~785)は中国・唐時代中期の能書家<のうしょか>で、忠臣としても知られます。平原太守に任じられたことにより顔平原<へいげん>、また魯郡公に封じられたことから顔魯公<ろこう>とも呼ばれます。玄宗<げんそう>皇帝のとき、安禄山<あんろくざん>が反乱を起こしたのに対し、顔真卿は安禄山と戦い功を立てましたが、のち反臣の李希烈<りきれつ>に捕らえられ最後まで唐の王朝に忠誠を尽くして、彼らの言に従わなかったために殺されました。
その書は王羲之と並び称されています。多宝塔碑<たほうとうひ>・顔勤礼<がんきんれい>碑・顔氏家廟<がんしかびょう>碑など楷書の碑を数多く揮毫し、独特の書法による重厚な書風です。極めて個性的な筆使いのためか楷書については毀誉褒貶<きよほうへん>相半ばしていますが、行草書については非常に評価が高く、特に三稿(祭姪文稿<さいてつぶんこう>・祭伯<さいはく>文稿・争坐位<そうざい>文稿)と呼ばれる三つの草稿本は顔真卿の人となりが率直に表れたものとして傑作といわれています。
かんすぼん
巻子本
書物の装丁形式の一つで、巻物のことです。紙を何枚も継いで端に軸を付け、それを芯にして巻いていきます。奈良時代・平安時代初期では全て巻子本であったようです。
やがて冊子本<さっしぼん>や折本<おりほん>が伝えられると、巻子本に比べ扱い易いために冊子本や折本が普及しました。しかし写経の場合は巻子本が多く、絵巻物などもやはり巻子本で作られています。現在でも書の作品に巻子本が用いられることが少なくありません。
がんとうしょうぎょうじょ
雁塔聖教序
中国・初唐の三大家の一人、遂良<ちょすいりょう>の書になる楷書碑で、
永徽四年(653)に建てられました。

貞観十九年(645)、『西遊記』のモデルとして知られる三蔵法師こと玄奘<げんじょう>(602~664)は十七年に及ぶインドへの旅を終え、多くの仏教経典を持ち帰ってそれを漢訳しました。この功績に対して唐・太宗<たいそう>が三蔵聖教序を、高宗<こうそう>が序記を作り、遂良が書したものです。
雁塔聖教序は細身の線ながらしなやかで強く優雅な美しい字形のもので、彼一代の傑作というばかりでなく、書道史上の最高の名品の一つといえます。
きのつらゆき
紀貫之
紀貫之(870?~945?)は平安時代の歌人、『古今和歌集』の撰者の一人で、『土左(佐)日記』の作者です。紀貫之は『古今和歌集』や『源氏物語』などによると能書であったことが知られます。また歌人として尊崇されたため、「高野切<こうやぎれ>古今集」や「桂本<かつらぼん>万葉集」(どちらも十一世紀の書写と推定)などの筆者とされていますが、真跡と確認できるものはありません。
ただ、藤原定家<さだいえ>が紀貫之自筆の「土左日記」の一部を忠実に臨書したといわれるものが現存しますが、その文字を見るとほぼ現在の平がなにちかい形をしており、かなの生成過程における重要な資料となっています。
きひつ
起筆
点画の書き始めのことで、始筆<しひつ>ともいいます。起筆には、蔵鋒<ぞうほう>(鋒先を点画の中に蔵<かく>すように運筆する)・露鋒<ろほう>(鋒先を露<あらわ>にして運筆する)・順筆<じゅんぴつ>(左上から進行方向に向って素直に鋒先を入れる)・逆筆<ぎゃくひつ>(進行方向とは逆に鋒先を入れる)などがあり、それによって線の趣きが違ってきます。起筆は鋒先をしっかり起こすことが大切です。
きみゃく
気脈
書の文字間・点画間における気持ちのつながり・流れで、脈絡のことです。実際に線が続いていなくとも、流れ・つながりのある書は気脈が貫通していると感じられます。
ぎゃくひつ
逆筆
運筆に際して、進行方向とは逆に筆の鋒先<ほさき>を入れ、筆の軸を進む方向とは反対に傾けて運筆することです。特に隷書を書くときによく用いる運筆法です。
きゅうせいきゅうれいせんめい
九成宮醴泉銘
初唐の三大家の一人である欧陽詢<おうようじゅん>(557~641)の書した楷書碑で、唐時代を代表する傑作です。唐の太宗<たいそう>が九成宮に避暑に行ったとき醴泉(甘みのある泉)が発見され、それを記念して貞観六年(632)に建てられています。
その書は「楷書の極則」といわれ、用筆は整然とした精密なもので、一分の隙もない美しい姿態を示しており、古くから楷書の手本としてなくてはならないものの一つです。
きょうじ
経師
奈良時代においては写経は国家事業として官立の写経所において行われましたが、経師はそこで経文の書写を担当した写経生のことです。平安時代になると写経事業の規模が縮小し、経師が経巻の表装なども一手に担うようになりました。
さらに写経が減少した室町時代ころから、経師は書画の表具<ひょうぐ>などをも手掛けるようになり、江戸時代中期以降は現在のように書画の幅、屏風や襖<ふすま>などの表装をする職人となり、経師屋と呼ばれるようになったようです。
ぎょうしょ
行書
漢字の書体の一つで、楷書と草書の中間の書体です。書きやすく点画を続けたり、省略して楷書より速く書け実用書にも適しています。その発生については、後漢時代の末ころ劉徳昇<りゅうとくしょう>が作ったという説もありますが、はっきりしたことはわかりません。東晋の王羲之の時代には今日の行書が完成したものと思われます。
行書の代表的な遺品としては、王羲之<おうぎし>の「蘭亭叙<らんていじょ>」「集字聖教序<しゅうじしょうぎょうじょ>」、唐太宗<とうたいそう>の「晋祠銘<しんしめい>」などがあります。また、我が国の大谷探検隊によって西域から発見された「李柏尺牘<りはくせきとく>」は行書で書かれており、王羲之の生存中の真跡として極めて貴重なものです。
きれ
古人の書いた巻子本や冊子本の断簡のことで、所蔵者や内容などによってさまざまな名が付けられています。また古人の書いた優れた書跡を古筆といい、その断簡は古筆切<こひつぎれ>といわれます。
古筆切で最も有名なものに、「高野切<こうやぎれ>」がありますが、これは平安時代・十一世紀に書写された『古今和歌集』の断簡で、もとこの一部が高野山に伝来したことからこの名に呼ばれます。
他に、「貫之集<つらゆきしゅう>切」(紀貫之の歌集の断簡)、「筋<すじ>切」(料紙に銀泥で縦の線〈筋〉が引いてある)、「本阿弥<ほんあみ>切」(本阿弥光悦が所持していた)などがあります。
きわめふだ
極札
古人の書いた書跡「古筆<こひつ>」を鑑定したときに、その筆者の名や書き出しの語句などを短冊形の小紙片に書いたものです。室町時代の末期から茶道が盛んになると、茶室の掛物として古筆が愛好されるようになり、巻物や冊子本を切断して掛物や台紙に貼って鑑賞するようになりました。これが古筆切<こひつぎれ>といわれるもので、古筆切が大量に作られると、それを鑑定したり名前を付けたりする人々が現れ、極札を作りました。
しかし、こうして鑑定家が付けた筆者名はあくまで推定ですので、現在では筆者名の前に「伝<でん>」の字を付けています。例えば、伝紀貫之<きのつらゆき>筆「高野切<こうやぎれ>」・伝小野道風<おののみちかぜ>筆「本阿弥切<ほんあみぎれ>」となります。
また、良い物を形容するのに「極付<きわめつき>」といいますが、この言葉はここからきています。
きんせきぶん
金石文
金属に刻された文字「金文」、石に刻された文字「石文」を総称していう言葉です。金文は、中国の殷・周時代の青銅器をはじめ、貨幣・権量銘<けんりょうめい>(権はおもり、量はます)・鏡などに刻された文字、石文は碑や摩崖<まがい>(天然の崖壁や石に刻したもの)・墓誌銘・造像記などの文字です。
我が国の金石文の代表的な遺品としては、江田船山古墳出土太刀銘<えだふなやまこふんしゅつどたちめい>・法隆寺金堂釈迦造像記(以上金文)、宇治橋断碑・多胡碑<たこひ>(以上石文)などがあります。
くうかい
空海
空海(774~835)は、平安時代初期の僧で真言宗の開祖、平安時代の三筆の一人でもあります。「弘法大師」の名で親しまれ、全国各地にさまざまな逸話が残っています。
讃岐国多度郡(香川県善通寺市)に生まれ、十八歳で大学に入り儒教を学びましたが、二十四歳のときに仏教に志し出家します。そして延暦二十三年(804)、最澄<さいちょう>とともに遣唐使船で中国に渡り密教や書を学び、二年後に帰国し、のち真言宗を開いています。
空海は中国で王羲之<おうぎし>を中心とする書を学び、さらに顔真卿<がんしんけい>の書も学んだと思われその影響が見られます。また空海はさまざまな書体を得意としたと伝えられますが、三筆の筆頭というばかりでなく、日本書道史上の最高の書人といえます。空海の書の遺品としては、「風信帖<ふうしんじょう>」「灌頂歴名<かんじょうれきめい>」「三十帖冊子<さんじゅうじょうさっし>」などがあります。

くさかべめいかく
日下部鳴鶴
日下部鳴鶴(1838~1922)は明治から大正時代にかけての書家です。彦根藩士の子として生まれ、明治維新後、大久保利通<おおくぼとしみち>の信任を得て大書記官に至りましたが、大久保利通が暗殺されたのちは官を辞して書家に専念しました。
明治十三年に中国から来朝した楊守敬<ようしゅけい>によってもたらされた古碑帖により中国・南北朝時代の北碑の書を研究し、自らの書を創り上げました。楷・行・草・隷のいずれにも優れ、特に楷書において卓絶し夥しい碑文を書しています。
また、弟子の育成にも努め、その門から近藤雪竹<こんどうせつちく>・比田井天来<ひだいてんらい>・丹羽海鶴<にわかいかく>ら多数の俊秀を輩出しており、現書壇の作家の多くが鳴鶴門に連なっています。
ぐせいなん
虞世南
虞世南(558~638)は、陳・隋・唐時代初期の人で、初唐の三大家の一人です。唐太宗<とうたいそう>の全幅の信頼を得て、太宗の書の相談役として活躍し、王羲之の書の鑑定などにも当たりました。
その書は力を内に秘めた品格の高いもので、「孔子廟堂碑<こうしびょうどうひ>」(楷書)は一代の傑作で、特に品致の高いものです。行書の作品としては「積時帖<せきじじょう>」があります。また、有名な王羲之の「蘭亭叙<らんていじょ>」の模本の一つである「張金界奴本<ちょうきんかいどぼん>」は虞世南が臨書したものといわれています。
くもがみ
雲紙
料紙の装飾技法の一つで、藍または紫に染めた紙の繊維を雲のように漉き込んだものです。別に打曇<うちぐもり>ともいいます。平安時代・十一世紀中頃の書写と考えられる「雲紙本和漢朗詠集」が最古の遺品です。
普通は紙の上下に雲を配し、上部を藍に、下部を紫にするのが一般的です。また室町時代以降、短冊の料紙として最も多く使用されています。
けっかく
闕画・欠画
中国で行われる特殊な漢字表記上の例で、天子や貴人の名と同じ漢字を書くときにその字の点や画を省略して敬意を表すことで、闕筆ともいいます。
たとえば、孔子の名・孔丘の丘の右側の縦画を省略したり、清時代の康煕帝の名・玄曄の玄の最後の点を省略したりするものです。
けつじ
闕字・欠字
文章中の天子や貴人に関する文字を書くとき、敬意を表してその上を一字ほどあけることです。またさらに丁寧にする場合は、行を変えて書くことがあり、これを平出<へいしゅつ>といいます。
けったい
結体
文字における点画の組み立て、字形のまとめ方のことで、結構ともいいます。
げんえいぼんこきんしゅう
元永本古今集
平安時代・十二世紀に書写された『古今和歌集』の完本<かんぽん>(本文に逸脱のない完全な本)で極めて貴重なものです。上下二冊の冊子本で、所蔵していた三井家が国に寄贈し、現在は東京国立博物館に国宝として所蔵されています。
上巻の巻末に「元永三年(1120)七月廿四日」と記されていることからこの名に呼ばれます。また「元永本古今集」に使用されている料紙は、唐草・亀甲の模様を摺<す>り出した唐紙<からかみ>、染め紙に金銀の切箔<きりはく>や砂子<すなご>を撒いたものなど非常に華麗なものです。
その書は漢字とかながうまく調和し、散らし書きなども交えた変化に富んだもので、筆者を源俊頼と伝えますが、現在では藤原行成の曾孫・藤原定実<ふじわらのさだざね>と推定されています。
げんりゃくこうほんまんようしゅう
元暦校本万葉集
平安時代の『万葉集』の写本で、巻二十の奥書に「元暦元年(1184)六月九日、以或人校合了」とあり、元暦元年に他の写本を用いて校きょう合ごう(写本などで、本文の違いなどを他の本と照らし合わせて正すこと)したことが記されているのでこの名があります。
巻一・二・四・六・七・九・十・十二・十三・十四・十七・十八・十九・二十の十四巻分が東京国立博物館に所蔵され、国宝に指定されています。他に、巻十一・十四の断簡があり、全部で十五巻分、歌数にして約二千七百首(『万葉集』の歌数は約四千五百首)が現存しています。平安時代の『万葉集』の写本は他に、桂<かつら>本・藍紙<らんし>本・金沢<かなざわ>本・天治<てんじ>本があり、この元暦校本と合わせて「五大万葉」と呼ばれています。またこの元暦校本万葉集の書写年代は、他の書跡との比較研究の結果、十一世紀の末ころと推定されています。
けんりょうめい
権量銘
秦<しん>の始皇帝<しこうてい>は天下を統一したのち、文字の整理や度量衡<どりょうこう>(長さ・容積・重さ)の制定を行いました。このうち、権(重さを計る分銅)・量(容積を量るます)が遺されていますが、ここに刻まれた文字が権量銘です。文字はおおむね篆書で書かれています。
権は小型のものから大型のものまであり、量については長方形に柄の付いた方量と楕円形に柄の付いた楕量とがあります。
こうこつぶん
甲骨文
亀の甲羅や獣の骨に彫られた文字のことで、金文<きんぶん>(青銅器に彫られた銘文)とともに最も古い文字(漢字)です。殷<いん>時代後期の遺跡である殷墟<いんきょ>(河南省安陽)から多量に発見されました。研究の結果、紀元前1400~1100年ころのものと推定されています。

甲骨文の内容は主に占いの記録ですが、亀甲や獣骨に穴を彫って焼き、それによって生じた亀裂の形により物事の吉凶を占い、その記録を彫り付けたものです。同じ甲骨文でも年代により書風が違い、中国の研究者によって五期に区分されています。
こうしびょうどうひ
孔子廟堂碑
初唐の三大家の一人・虞世南<ぐせいなん>(558~638)の書になる楷書碑で、唐代の最高傑作の一つです。この碑は太宗<たいそう>の命によって孔子廟の修築が行われたことを記念して建てられたもので、書かれている文章も虞世南が作りました。別に夫子<ふうし>(孔子のこと)廟堂碑ともいわれます。
欧陽詢<おうようじゅん>の「九成宮醴泉銘<きゅうせいきゅうれいせんめい>」とともに「楷書の極側」といわれますが、原碑は早く破損して現存しません。その書は気品高く、線質のするどい縦長の整った字形でゆったりした運筆に特徴があります。
こうせい
向勢
特に楷書の場合に、相対する二本の縦画が向かい合うように書くことで、背勢<はいせい>に対することばです。言い換えれば外に膨らむように書かれているもので、大らかでゆったりした感じを与えます。
こうていけん
黄庭堅
黄庭堅(1045~1105)は中国・宋時代の人で、蘇軾<そしょく>・米<べいふつら>とともに「宋四大家<そうしたいか>」に数えられており、その号山谷<さんこく>によって黄山谷の名で知られています。宋時代の書は「意を尚<たっと>ぶ」といわれており、それぞれの書人の個性が大いに発揮されました。
黄山谷は禅にも深く精通し、俗から離れた超脱の書を目指し、数々の傑作を遺しています。また詩にも優れておりその詩風は江西体といい、後代には江西詩派と呼ばれてその開祖と仰がれています。
こうていひ
高貞碑
中国・北魏時代の正光四年(523)に刻された楷書碑で、北魏の書を代表する名品です。鄭道昭<ていどうしょう>の鄭羲下碑<ていぎかひ>をはじめとする摩崖碑や、龍門造像記などとともにいわゆる「六朝書<りくちょうしょ>」といわれるものです。
高貞碑の線は勁つよく文字の構えはよく整い、技巧に優れた理知的な書です。ここに一つの完成された楷書の姿を見ることができます。内容は高貞という人の頌徳碑<しょうとくひ>(人の功徳を称える文章を記したもの)です。
こうみょうこうごう
光明皇后
光明皇后(701~760)は、聖武天皇の妃で、父は藤原不比等<ふじわらのふひと>です。仏教を篤く信じ、聖武天皇とともに仏教興隆に貢献しました。
また書に巧みで、王羲之の書を臨書した「楽毅論<がっきろん>」や「杜家立成雑書要略<とかりつせいざっしょようりゃく>」などが遺されています。光明皇后の書は王羲之の筆意をよく会得した筆力の強いもので、奈良時代屈指の名筆といえます。
こうやぎれ
高野切
『古今和歌集』の現存最古の写本で、この断簡が豊臣秀吉から高野山の木食応其<もくじきおうご>に与えられたことにより、高野切と呼ばれます。十一世紀半ばころの書写と考えられていますが、三つの書風があり、それぞれ第一種・第二種・第三種と名付けられています。
その書は完成されたかなの姿を示すもので、それぞれに異なった書風を見せています。第一種は優雅典麗で美しい連綿と墨継ぎの妙があり最も品格が高く、第二種は力強い線と独特の字形が特徴できわめて個性的であり、第三種はすっきりとした線と平明な字形に特徴があります。「高野切」は数ある平安朝のかなの遺品の中でも最高のものといわれています。
ごがつついたちきょう
五月一日経
光明皇后が亡き父母(藤原不比等<ふひと>と橘三千代夫人)の菩提を祈って、天平十二年(740)に書写させた一切いっさい経きょう(一切の仏教経典の総称で、約五千巻)のことで、奥書に「天平十二年五月一日記」とあることからこの名に呼ばれます。その書は、奈良時代に書写された多くの写経の中でも特に優れたものです。
こくじ
刻字
文字を木やその他の材に刻したもので、書道の一分野です。刻法に陽刻<ようこく>(文字の部分を浮き上がらせるもの)と陰刻<いんこく>(文字の部分を彫るもの)とがあり、また文字に箔を押したり着色するなどの表現があります。
ごしょうせき
呉昌碩
呉昌碩(1844~1927)は清朝末期から民国初期の書家・篆刻家です。その書は、周時代の石鼓文<せつこぶん>を精習し、多くの優れた書作品を遺していますが、特に篆書の作品は定評があります。また篆刻は幼少から親しみ、秦代・漢代の印を深く修め、歴代の篆刻家の作を広く研究して独自の新境地を開きました。
このえのぶただ
近衛信尹
近衛信尹(1565~1614)は安土桃山時代から江戸時代初期にかけての公卿で、「寛永三筆」の一人です。近衛家の嫡男で、従一位・関白に至りました。また院号の三藐院<さんみゃくいん>の名で呼ばれることもあります。
生まれながらにして豪放な性格で、豊臣秀吉の朝鮮出兵に従軍することを企てましたが、そのことにより天皇の勅勘を蒙り、薩摩に配流されたこともありました。
その書は、強い筆力による切れ味のよいもので、性格同様豪放な味わいがあります。またこの時代には珍しく、大字かなの書も揮毫しています。
こひつ
古筆
古人の筆跡や画を意味する言葉ですが、特に平安時代から鎌倉時代にかけての歌集などを書いたすぐれた書跡を指していうことが多いようです。
古筆は巻物や冊子の形で大切にされてきましたが、茶道の流行によって、床の間の掛物の需要が増え、こうした古筆が切断され多くの断簡が作られました。これら古筆の断簡となったものは古筆切<こひつぎれ>と呼ばれます。
こひつりょうさ
古筆了佐
古筆了佐(1572~1662)は、本名は平沢範佐<のりすけ>といいましたが、古筆(古人の優れた筆跡、特に平安から鎌倉時代にかけてのもの)の鑑定の第一人者として活躍し、幕府から「古筆」の姓を賜り古筆了佐を名乗りました。
鑑定に当たっては、推定した筆者などを細長い短冊形の紙にしたためた「極札<きわめふだ>」を作りました。古筆了佐を祖とする「古筆家」は代々が古筆の姓を名乗って鑑定を業とし、近代まで続きました。
こもんじょ
古文書
ある事柄や意志を伝達するために文章を作成して相手に送付したものを文書<もんじょ>といい、その文書が一定の時間を経過したときに古文書といいます。多くは紙に書かれますが、布や木に書かれたものもあります。
最も古い奈良時代の古文書の多くが奈良の正倉院に所蔵されます。以下、平安・鎌倉・室町各時代のものは多くは寺院や公家・神社などの所有で、江戸・明治時代、いわゆる近世・近代のものについては膨大な数に上ります。
さいちょう
最澄
最澄(767~822)は平安時代初期の僧で、天台宗の開祖として知られています。十三歳で仏教に志し、やがて比叡山に草堂(のちの延暦寺)を建て、修行に励みました。延暦二十三年(804)に空海<くうかい>・橘逸勢<たちばなのはやなり>らとともに遣唐使船によって中国に渡って仏教を学び、翌年帰国して天台宗を開きました。
その書として残る「久隔帖<きゅうかくじょう>」や「請来目録<しょうらいもくろく>」は、謹厳にして清らかで、品格の高い書です。
さがてんのう
嵯峨天皇
嵯峨天皇(786~842)は平安時代初期の天皇で、詩文・書をよくし、当時の宮廷文化の中心となって活躍しました。弘仁五年(814)には我が国最初の勅撰の漢詩文集『凌雲集<りょううんしゅう>』が成立しています。天皇は空海と親しく交わり、その書の影響を受けています。
書は平安朝の三筆の一人に数えられ、遺品に「光定戒牒<こうじょうかいちょう>」「哭澄上人詩<こくちょうしょうにんし>」があります。
さっしぼん
冊子本
書物の装丁形式の一つで、巻子本<かんすぼん>(巻物のこと)と違って綴じてある本のことです。冊子本には、粘葉装<でっちょうそう>(胡蝶<こちょう>装とも)、綴葉装<てっちょうそう>(列帖<れっちょう>装とも)などいくつかの形式があります。
粘葉装は一紙を二つ折りにして積み重ね、折り目の方に糊を着けて貼り合わせたもの、綴葉装は数枚の紙を重ねて二つ折りにして一括<くく>りとし、この括りをいくつか重ねて糸で綴じて一冊としたものです。
さんこう
三稿
顔真卿<がんしんけい>の書いた三つの草稿本である、「祭姪文稿<さいてつぶんこう>」「祭伯<さいはく>文稿」「争坐位<そうざい>文稿」のことです。
顔真卿の楷書は特異なものなので評価が分かれますが、行草書で書かれたこの三稿については称賛しない者はなく、顔真卿の楷書を貶けなした宋の米<べいふつ>も高く評価しています。
いずれも顔真卿の真情が表れたもので、「書は人なり」という言葉が相応しい作品です。「祭姪文稿」は真跡が台北の故宮博物院に所蔵されていますが、他の二つは真跡が伝わらず、刻帖として遺されています。
さんしきし
三色紙
平安時代に書写された三つの色紙、「寸松庵<すんしょうあん>色紙」「継<つぎ>色紙」「升<ます>色紙」をいいます。色紙とはいますが、もともとは三つとも和歌を書写した冊子本の断簡で、形が色紙に似ていることからこの名があります。平安時代に書写された歌集の断簡は他にも数多くありますが、この三つの書が特に優れているので、三色紙と呼ばれるようになりました。
さんせき
三跡
平安時代中期の和様書の能書家である、小野道風<おののみちかぜ>・藤原佐理<ふじわらのすけまさ>・藤原行成<ふじわらのゆきなり>の三人をいいます。三人の書はそれぞれ姓名や官名の一字をとって、野跡<やせき>(小
道風)・佐跡<させき>(藤原
理)・権跡<ごんせき>(藤原行成・
大納言)といわれます。
さんぴつ
三筆
平安時代初期の能書家である、空海<くうかい>(弘法大師・774~835)・嵯峨天皇<さがてんのう>(786~842)・橘逸勢<たちばなのはやなり>(?~842)の三人をいいます。平安時代初期は、遣唐使によってもたらされた中国文化の影響が強く、漢詩文が全盛で書においては王羲之を中心とする中国書法が基になっています。
しきし
色紙
方形で小型の厚紙でできた料紙のことで、書や画を揮毫するのに用いられます。

この色紙は平安時代の色紙形<しきしがた>(屏風・障子・壁画などに和歌や詩文を書くために方形に彩色した区画、あるいは貼り付けられた紙)が分離して独立したもので、室町時代から流行したようです。
ししんひ
史晨碑
史晨碑は後漢時代の建寧二年(169)に建てられたもので、代表的な隷書碑です。碑陽<ひよう>(碑の表面)を史晨前碑、碑陰<ひいん>(碑の裏面)を史晨後碑と通称しています。
その文字は穏やかでよく整っており、隷書の入門に最適なものといわれています。
しひつ
試筆
新年に初めて文字を書くことをいいます。正月二日に恵方<えほう>(吉方とも書き、その年の吉の方角)に向かってめでたい意味の文字を書く、いわゆる書初めのことです。
別に吉書<きっしょ>・吉書始めともいいます。試筆の起源ははっきりしませんが、我が国では室町時代から行われています。江戸時代には庶民も寺子屋で「読み・書き・そろばん」を習うようになり、書初めが広く行われるようになったようです。
また書初めで書いた書(吉書)は、宮中では正月十五日および十八日の左義長<さぎちょう>という儀式で焼きました。民間ではどんど焼きといわれ、門松・七五三<しめ>飾・書初めなどを焼き、その火で焼いた餅を食べると一年中病気に罹<かか>らないといわれます。現在でもさまざまな地方で行われています。
しゃきょう
写経
仏教の経文を書き写すことで、日本においては六世紀の仏教伝来とともに始まったと考えられます。我が国で写経が行われたという最初の記録は『日本書紀』にあり、天武天皇二年(673)に川原寺において一切経<いっさいきょう>(仏教経典の総称)が書写されたことが記されています。
奈良時代になると仏教の興隆にともない、官立の写経所が設けられて盛んに写経が行われました。写経の名品は圧倒的に奈良時代に多く、現代にも優れた写経の遺品が大量に伝えられています。
さらに平安時代の後期になると、写経の料紙に金銀の箔などによってさまざまな装飾を施した装飾経が多く作られました。「平家納経<へいけのうきょう>」が代表的な遺品です。
しゃきょうじょ
写経所
奈良時代・天平十三年(741)ころから国家事業である写経を行う役所として設けられたものです。写経所には、経典を書写する写経生のほか、書かれた経文の校正をする校生<きょうせい>、表装を行う装<そうこう>、金銀字経の場合に書写した経文をみがく瑩生<えいせい>、経巻の見返しなどの絵を描く画師等さまざまな職員がいました。
その中でも特に写経生は書の優秀な者が選ばれましたが、正倉院文書の中に写経生の採用試験として写経の文字を二・三行書かせたものが残っています。
しゅうじしょうぎょうじょ
集字聖教序
中国・唐時代(672年)の碑で、王羲之の行書を集字して刻したもので、集王聖教序ともいわれます。聖教序は玄奘<げんじょう>三蔵の偉業を称えた唐太宗の文章で、これを楷書で書いたものに有名な遂良<ちょすいりょう>の「雁塔<がんとう>聖教序」があります。
王羲之の行書を集めたといっても、ない文字もあり、字によっては偏と旁を組み合せるなどして作ったといわれています。行書の手本として古来尊重されてきました。
じゅうしちじょう
十七帖
王羲之の尺牘<せきとく>(書簡)二十九通を集めて刻したもので、一通目の冒頭が「十七日先書」という文字で始まっているのでこう呼ばれます。一通以外はすべて草書で書かれており、草書の手本として定評があります。その書が優れていることから「書中の龍」と称されています。
しゅうひつ
収筆
点画の終わりの部分のことで、終筆ともいいます。その形に、止め・跳ね・払いなどがあります。
しゅうほうみょうちょう
宗峰妙超
宗峰妙超(1282~1337)は鎌倉時代後期の臨済<りんざい>宗の僧で、京都・大徳寺の開山であり、大燈国師の名で知られます。

その書といわれるものに「看読真詮榜<かんどくしんせんぼう>」「秋風偈<しゅうふうのげ>」などがありますが、中国・宋四大家の一人黄庭堅<こうていけん>の書風に倣った力感溢れる堂々たるもので、禅僧としての彼のスケールの大きさが窺えます。
しゅくいんめい
祝允明
祝允明(1460~1526)は字<あざな>は希哲<きてつ>、号は枝山<しざん>(右手の指が一本多かった〈枝指〉ためという)です。
祝允明の書は元の趙子昂<ちょうすごう>以来の一人といわれます。中国・明時代を代表する書家で、その書は小楷<しょうかい>(細字の楷書)と草書に優れ、小楷に「出師表<すいしのひょう>」、草書に「赤壁賦<せきへきのふ>」などがあります。
じゅぼく
入木
書道のことを指すことばで、王羲之<おうぎし>が木の板に字を書いたところ、墨が深く浸み込んでいて削ってもなかなか字が消えなかった、という故事に由来します。
これにならって我が国でも平安時代のころから「入木の功」「入木の様」「入木の跡」など書道を表す言葉として使われています。
じゅんかつ
潤渇
よく墨を含んだ筆で書いた墨量のある線(潤筆)と、墨含みの少ない筆で書いたかすれた線(渇筆)のことで、この二つを組み合わせることによって、特に行草書作品においては立体感や深みが表現できます。
しょうかどうしょうじょう
松花堂昭乗
松花堂昭乗(1584~1639)は江戸時代初期の僧で、「寛永三筆」の一人に数えられます。また画にも長じ書とともに優れた水墨画などを遺しています。
昭乗は当時の一級の文化人であり、小堀遠州<こぼりえんしゅう>・林羅山<はやしらざん>・沢庵宗彭<たくあんそうほう>・石川丈山<いしかわじょうざん>などとも交遊がありました。その書は穏やかな流麗なもので、松花堂流として多くの人々に慕われました。

じょうだいよう
上代様
我が国の平安時代中期に生まれた和様の書のことをいいます。奈良時代から平安時代前期にかけては、王羲之を中心とする中国書法全盛でしたが、遣唐使の廃止(894年)によって我が国独自の文化が花開くようになりました。
書においては、小野道風<おののみちかぜ>(894~966)が王羲之の書法を基としながらも日本人の感性を加え和様書を創始し、藤原佐理<ふじわらのすけまさ>(944~988)を経て、藤原行成<ふじわらのゆきなり>(972~1027)によって完成されました。和様の書は、中国の書とはまた違った端正で優美な書風のものです。
じょうふく
条幅
画仙紙に書いた書作品のことで、一般的には半切<はんせつ>(半折)に書かれたものをいうことが多いのですが、全紙<ぜんし>(半切の倍)・聯落<れんおち>(全紙四分の三)などもあり、またこれより縦の寸法が長いものを長条幅といいます。
しょうほう
章法
書作品の全体の組み立て方、全体構成のことです。一文字の字形、字間・行間の余白、墨の潤渇、線質などさまざまなことに配慮し全体として調和のとれた書作品にまとめることです。
しょうよう
鍾繇
鍾繇(151~230)は、字<あざな>は元常<げんじょう>、後漢<ごかん>から魏<ぎ>にかけて官僚・政治家として活躍しました。曹操<そうそう>・曹丕<そうひ>に仕え魏の建国に力を尽し、宰相にまでなっています。正史である『魏書』並びに『三国志』にその名が登場します。
隷書・楷書・行書の三体に秀でていたと伝えられますが、その書として伝わるものに楷書の「薦季直表<せんきちょくひょう>」「宣示<せんじ>表」などがあります。また孫過庭<そんかてい>の「書譜<しょふ>」において張芝<ちょうし>・王羲之<おうぎし>・王献之<おうけんし>とともに書の四賢の一人に数えられています。
しょうれんいんりゅう
青蓮院流
鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての人である、尊円<そんえん>親王(1298~1356)が始めた書流で、平安時代以来の和様の書を基としながらも力強さを加え、豊麗で温和な独自の書風を創り上げました。
青蓮院流という名は、尊円親王が京都の寺・青蓮院の門跡を勤めたことによります。また尊円流・粟田口流<あわたぐちりゅう>(青蓮院があった地の名)ともいわれ室町時代を通じて広まり、江戸時代には御家流と呼ばれて武家から庶民の間に大いに普及し、公文書はすべてこの書風で書かれました。

しょしゃたい
書写体
筆写体<ひっしゃたい>ともいい、活字体に対して書きやすくまた美しく見せるために筆画を変えた手書き用の文字のことです。
しょたい
書体
書体とは、大きく分けて、楷<かい>書・行<ぎょう>書・草<そう>書・隷<れい>書・篆<てん>書の五つで、これを漢字の五体といいます。
最も古い書体が篆書で、殷<いん>時代後期(BC1400ころ~BC1100ころ)の亀の甲羅や獣の骨に刻まれた甲骨文<こうこつぶん>や、殷時代後期から周<しゅう>時代(BC1100ころ~BC222)の青銅器に鋳込まれた金文<きんぶん>に始まり、秦<しん>時代(BC221~BC206)の小篆<しょうてん>で完成されます。次が隷書で、秦時代に篆書を簡略化して生まれ、漢<かん>時代(BC202~AD220)に多く使われました。楷書・行書・草書の三体はこの隷書から出ています。
次に「年」という字を例にとって五体を比較してみます。見られるように、楷書・行書・草書が隷書から生まれたことがわかります。
しょとうのさんたいか
初唐三大家
欧陽詢<おうようじゅん>(557~641)・虞世南<ぐせいなん>(558~638)・遂良<ちょすいりょう>(596~658)をいいます。それぞれ「九成宮醴泉銘<きゅうせいきゅうれいせんめい>」「孔子廟堂碑<こうしびょうどうひ>」「雁塔聖教序<がんとうしょうぎょうじょ>」という楷書の碑が遺されており、この三人によって楷書の美は頂点に達しました。
しょふ
書譜
中国・唐時代の人、孫過庭<そんかてい>の書いた草書の作品で、書論としても優れており、草書の手本として広く習われてきました。真跡が台北の故宮博物院に所蔵されています。
王羲之<おうぎし>を最高の書人として位置づけ、書のさまざまな点について述べられています。草書作品中の傑作として、極めて貴重なものです。
しょふう
書風
書風というのは、文字の書きぶりを表す言葉で、書の持ち味、趣きのことをいいます。同じ文字を書いても、書風が違えば同じ書体であっても受ける感じが異なります。よく「書は人なり」といいますが、極端にいえば百人いれば百通りの書風があるともいえます。
書は書く人の個性が反映され、それぞれ趣きが異なるわけですが、時代や地域によっても書風に違いがあります。中国においては、晋<しん>・唐<とう>・宋<そう>といった時代にはその時代の特色があり、また北と南という地域によっても違いが見られます。
また我が国においては、奈良時代に中国からもたらされた王羲之<おうぎし>や唐時代の書を学びながらも、平安時代中期になると中国風の書から日本風な和様の書が生み出されました。こうしたものを書風といいます。
次に、楷書の「年」という文字を例にとって書風の違いを見てみますと、同じ時代の書にはその時代の特徴があり、また、同じ時代の書の中にも書者による書風の違いがあるのがわかります。
しんかん
宸翰
宸翰とは天皇自筆の筆跡のことで、宸筆<しんぴつ>ともいいます。宸翰の最も古いものは、奈良時代の聖武<しょうむ>天皇筆「雑集」があり、もとは「宸翰雑集」と呼ばれました。
平安時代では、嵯峨・宇多・醍醐・後白河天皇などの宸翰が遺り、鎌倉時代以降多くの遺品があります。また鎌倉時代から南北朝時代にかけての天皇の書を総称して宸翰様ようといいます。
しんそうせんじもん
真草千字文
千字文は、一字の重複もない千字によって作られた文章ですが、これを陳~隋時代にかけての僧である智永<ちえい>(王羲之<おうぎし>七世の孫に当たるといわれる)が、真(楷書)と草(草書)の二体で書いたものです。はじめに楷書を書き、その左に草書を書いています。
真跡本が日本に伝わり、小川本と呼ばれます。またこれとは違う真跡本から刻したと思われるものに「関中<かんちゅう>本」があり、その書の趣きを異にしています。
すいてき
水滴
硯に水を注ぐ器で、金属製や陶磁器で作られたものがあります。水孔<すいこう>(注ぎ口)が二つ(水を入れる口と出す口)あり、入れる方の口を指で押さえると水は出ないようになり、それで水の量を調節します。

すずり
「硯」は「研」とも書き、どちらも石をすりみがくことですが、研磨することに「研」を用い、「硯」はすずりの意味に専用するようになったようです。また、我が国では古くは「すみすり」(十世紀の『和名抄<わみょうしょう>』という我が国最初の辞典)といっていましたが、のちに「すずり」になったようです。


【硯の歴史】
現存最古の硯は、秦<しん>時代(BC221~BC206)の墓から発見された石硯で、同時に墨も見つかっています。その他漢時代(BC167)の墓からも石硯が出土しています。唐時代(618~907)になると、現在でも使用されている、端渓<たんけい>硯・歙州<きゅうじゅう>硯といった良質の石硯が使われ始めます。
また、現在では石硯がほとんどですが、この他にも陶硯<とうけん>(土を焼いて作った硯)、鉄硯<てっけん>(鉄で作られた硯)、漆硯<しっけん>(木板に石末を混入した漆を塗ったもの。軽いので携帯用とした)・玉硯<ぎょくけん>(玉で作られた硯)などもあります。
日本の奈良・平安時代は盛んに写経が行われましたが、この時代にはもっぱら陶硯が使用されたようで、奈良県の平城京遺跡や宮城県の多賀城址から多くの陶硯が出土しています。


【硯の種類】
現在市販されている硯は大別して、唐硯<とうけん>(中国の硯)、和硯<わけん>(日本の硯)とに分けられますが、まず唐硯の代表的なものを見てみます。
1.端渓硯<たんけいけん>
中国・広東省の西江という川から採掘されるもので、古くこの地を端州といったことから端渓硯といわれます。唐硯と言えば端渓といわれるほどの名硯です。現在でも採石されますが、これは新端渓といわれます。
2.歙州硯<きゅうじゅうけん>
江西省県から安徽省歙県にかけての山から産出するもので、もとこの地を歙州といったことから歙州硯といわれます。端渓硯と並び称される名硯です。現在でも採石されています。
3.澄泥硯<ちょうでいけん>
黄河の泥を特殊な方法で焼いて作られたものですが、一部自然石のもの(新澄泥といわれる)もあります。現在作られているものに汾河<ふんが>澄泥硯があります。
次に、和硯の主なものを見てみます。これらの石は現在も採石されています。
1.雨畑<あまはた>石山梨県早川町
2.赤間<あかま>石山口県下関市
3.玄昌<げんしょう>石宮城県雄勝町
なお、硯の形も普通の長方形のもの(長方硯)のほか、円硯<えんけん>(丸い硯)・方硯<ほうけん>(正方形の硯)・箕形<きけい>硯(農具の箕みの形をした硯)・硯板<けんばん>(硯面に海〈墨をためる凹んだところ〉のない板状の硯)などがあります。


【硯の各部の名称】
海<うみ>磨った墨を貯めておく、凹んだところで、水池<すいち>・硯沼<けんしょう>ともいいます。
丘<おか>墨を磨るところで、墨道<ぼくどう>・墨堂<ぼくどう>ともいいます。
硯面<けんめん>硯の表のことで、硯表<けんひょう>ともいいます。
硯背<けんはい>硯の裏のことで、硯陰<けんいん>ともいいます。
硯縁<けんえん>硯の縁<ふち>のことです。
硯側<けんそく>硯の側面のことで、硯旁<けんぼう>ともいいます。


【硯の使い方】
硯で墨を磨るときには、いきなり必要な量の水を入れるのではなく、まず少量の水を丘に落として墨を磨り、それがある濃度になったら海に落とし、これを何回か繰り返して必要な量になるようにすることが大切です。
また、硯は使い終わったら、必ずきれいに洗うようにしましょう。洗わずにおくと、墨の滓<かす>が残り、次に墨を磨ったときに墨色が悪くなったり、硯を傷めることにもなります。洗うときには、硯洗い用の刷毛を使うか、あるいは古くなった歯ブラシでも間に合います。
すみ
「墨」という字は「黒」と「土」で出来ていますが、「黒」は炎が上がり煙出しの窓が煤<すす>で黒くなることから「くろい」ことを表わし、それを土でこねたものが「墨」となったのです。


【墨の歴史】
現在見ることのできる最も古い墨の遺品は、中国湖北省の秦<しん>時代(BC221~BC206)の墓から発掘されたもので、石硯・磨石とともに発見されました。硯の上に墨を置いて磨石ですりつぶすようにして使ったと考えられています。これと同じような墨は漢<かん>時代の墓(BC167ころ)からも見つかっています。
はじめは磨石ですりつぶすようにして使われていた墨がやがて板状になり、現在見られる固形墨になったと考えられています。
固形墨の遺品で現在見られるものは、唐<とう>時代(618~907)に中国から我が国に渡来した墨ですが、長さが三十cm程もある大きなもので、奈良の正倉院に所蔵されています。それには「開元四年(716)」の年号の朱書がありますが、716年は玄宗皇帝が即位して間もないころです。
唐時代以降、南唐<なんとう>(937~976)・宋<そう>時代(960~1297)・元<げん>時代(1297~1368)・明<みん>時代(1368~1662)・清<しん>時代(1662~1912)それぞれに有名な墨匠(墨造りの職人)が輩出し、さまざまな墨が作られました。


【墨の種類】
墨は、煤煙<すす>・膠<にかわ>・香料などで出来ていますが、煤煙を作る原料によって分類されます。
松煙<しょうえん>墨
松を燃やして採った煤煙を用いたもの。また、年月の経過した松煙墨は淡墨<たんぼく>(うすく磨った墨)で使うと青黒色となるので、俗に「青墨<せいぼく>」といわれます。
油煙<ゆえん>墨
植物性の油、菜種油・胡麻油などを燃やした煤煙を用いたもの。
洋煙<ようえん>墨
鉱物油、軽油・重油などを燃やした煤煙を用いたもの。
朱墨<しゅぼく>
辰砂<しんしゃ>(水銀と硫黄の化合物)を原料として、膠を用いたもの。墨書したものの添削・篆刻の布字・印稿作成用などに使われます。
また、墨の大きさは丁型で表わしますが、これは重量によって分類したものです。
一丁型……15グラム
二丁型……30グラム
三丁型……45グラム
四丁型……60グラム
五丁型……75グラム
八丁型……120グラム
十六丁型…240グラム

普通使用するには、三丁型くらいが使いやすく、少し大き目のものとして五丁型といったところです。
三丁型と五丁型は、左に示したような大きさのものが一般的です。
すみでらしんぎょう
隅寺心経
般若心経を書写したもので、弘法大師・空海が書写したという伝説があります。隅寺というのは奈良にある海龍王寺<かいりゅうおうじ>のことで、ここから多量の般若心経が発見されたことによりこの名に呼ばれます。
空海が書いたといわれますが、その書風から奈良時代の天平年間(729~749)のものと考えられています。引き締まった形と鋭い線が特徴で、優れた写経遺品の一つです。
すみながし
墨流
料紙の装飾技法の一つで、墨流染ともいいます。水面に墨汁を吹き散らし、流れた墨の模様を紙を伏せて写し取るものですが、二つと同じ模様が出来ないという特徴があり変化に富んでいるものです。
平安時代から鎌倉時代にかけて書写された歌集などの料紙にこの墨流の技法が使われており、いくつかの遺品があります。平安時代の遺品として「扇面法華経冊子<せんめんほけきょうさっし>」や「本願寺本三十六人集」中の「躬恒<みつね>集」などが、鎌倉時代の遺品として「墨流本和漢朗詠集」などがあります。
すんしょうあんしきし
寸松庵色紙
「三色紙」の一つで、数ある平安時代のかなの作品の中でも代表的な名筆です。色紙といわれますが、もとは冊子本<さつしぼん>(巻物でなく綴じた本のこと)の断簡で形が色紙に似ていることからこう呼ばれます。また寸松庵というのは京都の大徳寺内の茶室の名で、そこに伝わったものです。
一紙に一首の和歌を散らし書きにしたもので、線が伸びやかで切れ味よく、連綿も大胆で行間の余白の美しさに特徴があります。

せいれいいんしゃ
西印社
中国・清時代末期の光緒三十年(1904)に、杭州で結成された篆刻・金石・書画の研究を目的とする芸術家の団体です。ここ西印社には、多種多様の印章が集められ、同時に書画や篆刻の普及を計るため、多数の印譜や書画冊を刊行しています。日本からも河井廬<かわいせんろ>・長尾雨山<ながおうざん>といった人が社員として参加しました。
せきとく
尺牘
手紙・書簡のことです。牘は木や竹の札のことで、昔中国で一尺程の牘に文字を書いて書簡としたことからきています。
尺牘の遺品で古いものとして、中国・晋<しん>時代(四世紀)の「李柏文書<りはくもんじょ>」があります。これは李柏という人が書いた手紙で行草体で書かれています。また同時代の王羲之<おうぎし>の書簡を集めて刻したものに「十七帖<じゅうしちじょう>」があります。
我が国には、空海<くうかい>筆「風信帖<ふうしんじょう>」、最澄<さいちょう>筆「久隔帖<きゅうかくじょう>」、藤原佐理<ふじわらのすけまさ>筆「離洛帖<りらくじょう>」などの書簡の遺品があります。
せきどぼんこきんしゅう
関戸本古今集
平安時代に『古今和歌集』を書写した断簡で、紫・藍・茶・緑などの染め紙に書かれており、一部が名古屋の関戸家に所蔵されることからこの名があります。書写年代は十一世紀後半と考えられています。
変化に富んだ筆使いで、流麗な連綿、効果的な墨継ぎによって墨色の濃淡が巧みに表現されています。平安朝のかなを代表する屈指の名筆です。
せきもんしょう
石門頌
石門頌は後漢時代の建和二年(148)の隷書碑で、摩崖<まがい>(天然の崖壁や石)に刻されています。その書は完成された隷書でありながら古雅な趣きがあり、ゆるやかな波磔<はたく>(右払い)に特色があります。
せんじもん
千字文
六世紀に中国の周興嗣<しゅうこうし>が作ったと考えられるもので、一字の重複もない千字によって編まれた四字一句・二五〇句の文章です。書の学習と文字を憶えるためのテキストとして広く普及しました。「天地玄黄<てんちげんこう>」で始まり「焉哉乎也<えんさいこや>」で終わりますが、その中の「夫唱婦随<ふしょうふずい>」という句は昔からよく知られています。
千字文は『古事記』によれば、応神天皇の時に百済<くだら>から伝えられたとされ、我が国にも早くから渡来していたことがわかりますが、これは周興嗣のものとは別のものと考えられています。
千字文の遺品としては、智永<ちえい>の「真草<しんそう>千字文」、懐素<かいそ>の「草書千字文」があり、その他にも欧陽詢<おうようじゅん>・遂良<ちょすいりょう>・趙子昂<ちょうすごう>・文徴明<ぶんちょうめい>などの千字文が知られており、多くの書家が千字文を書写しています。
そうこうてんぼく
双鉤填墨
書跡を模写する方法です。原本の上に薄い紙を載せて敷き写しにして文字の輪郭を写し取り(双鉤・籠字<かごじ>ともいいます)、その中を墨で塗りつぶして(填墨)、原本とそっくりなものを作ることです。
我が国に伝わる王羲之<おうぎし>の「喪乱帖<そうらんじょう>」や「孔侍中帖<こうじちゅうじょう>」は最も精巧な双鉤填墨の遺品です。
そうしょ
草書
漢字を崩して書く書体で、点画を大胆に省略しているものです。デフォルメがしやすく個性的な作品を書くことができます。
草書の成立については、前漢時代(BC202~AD8)に隷書の省略体として発生し、四世紀ころに完成したと考えられています。代表的な草書の遺品としては、王羲之<おうぎし>の「十七帖<じゅうしちじょう>」、智永<ちえい>の「真草千字文<しんそうせんじもん>」、孫過庭<そんかてい>の「書譜<しょふ>」などがあります。また漢時代の木簡<もっかん>にはすでに草書で書かれたものがあり、さまざまな草書の姿が見られます。
そうぜんひ
曹全碑
中国・後漢時代(185)に刻された隷書碑です。その書は、一字の形が扁平で左右の均斉がよく整い、波磔<はたく>(右払い)が暢びやかで美しいといった特徴があります。数多くある漢代の隷書碑の中でも、礼器碑<れいきひ>とともに後漢時代を代表する名品です。
そうのしたいか
宋四大家
宋時代の書の大家である、蔡襄<さいじょう>(1012~1067)・蘇軾<そしょく>(1036~1101)・黄庭堅<こうていけん>(1045~1105)・米<べいふつ>(1051~1107)の四人をいいます。
ぞくじ
俗字
漢字の正格でないもので俗に世間に通用するものをいいます。例として次のようなものがあります。
淵―渕 檜―桧 涙―泪 本―夲 桑―
帰―皈 濤―涛 駆―駈 事―亊
そくひつ
側筆
真直ぐに筆を立てて書く直筆に対して、筆管(筆の軸)を傾けて書くことです。側筆を使うと筆の鋒先と腹が線の両面となり鋒先が外側に出るので、切れ味のよい角張った線を書くことができます。
そしょく
蘇軾
蘇軾(1036~1101)は中国・宋時代の人で、その書は「宋四大家」のひとりに数えられます。また詩文にも長じ「唐宋八大家」の一人でもありますが、政治家としてはあまり恵まれない一生を送りました。号の東坡<とうばが>有名で、蘇東坡と呼ばれることが多いようです。
その書は楷・行・草書に優れ、楷書に「宸奎閣碑<しんけいかくひ>」、行草書に「黄州寒食詩巻<こうしゅうかんしょくしかん>」「李太白仙詩巻<りたいはくせんしかん>」「赤壁賦<せきへきのふ>」などがあります。
詩文では特に「赤壁賦」が名文として知られ、後世多くの書家が揮毫しています。
そんえんしんのう
尊円親王
尊円親王(1298~1356)は伏見天皇の第六皇子で能書家として知られています。その書は字形がよく整ったおだやかな書風です。「大覚寺結夏衆僧名単<だいかくじけつげしゅうそうみょうたん>」が代表的な遺品です。尊円親王の書風を青蓮院流<しょうれんいんりゅう>といいますが、それは親王が京都にある青蓮院の門跡となったことからきており、他に尊円流とも呼ばれ、江戸時代に流行した御家流はこの青蓮院流が元になっています。
そんかてい
孫過庭
孫過庭(生没年不詳)は字<あざな<は虔禮<けんれい>、七世紀の人です。王羲之<おうぎし>・王献之<おうけんし>をよく学び、草書に優れていました。その書に、「書譜<しょふ>」「草書千字文」がありますが、特に「書譜」は草書の古典として王羲之の「十七帖<じゅうしちじょう>」と並び称されるもので、書論としても優れています。
だいぞうきょう
大蔵経
仏教経典の総称のことで、別に一切経<いっさいきょう>ともいわれます。経きょう蔵ぞう(仏の教え)・律<りつ>蔵(仏徒の戒律)・論<ろん>蔵(経典の注釈)の三蔵<さんぞう>すべてを含むもので、『大正新修大蔵経』という書物に全文が活字で収められています。
三蔵は他に、経・律・論に通じた高僧のことも指しますが、特に『西遊記』のモデルとして知られる玄奘<げんじょう>が有名で、玄奘三蔵、或いは三蔵法師と呼ばれています。
たいひつ
退筆
筆の鋒先<ほさき>がちびて使えなくなったもののことで、禿筆<とくひつ>ともいいます。この使い古した退筆を供養するために築いた塚を筆塚といい、昔は筆をそのまま土中に埋めたようですが、現在は退筆を焼やして供養することが行われています。
たくほん
拓本
石・木・金属などに刻された文字や文様を、直接紙を当てて墨によって写し取ったもので、我が国では石摺<いしずり>といいます。拓を取る方法に湿拓<しったく>と乾拓<かんたく>の二種類があります。
湿拓は、拓を取る面に紙を押し当て水を使って貼り付け、水が乾く間際に墨を含ませたタンポでたたいて写し取るもので、乾拓は、水を使わずに石花墨という柔らかい墨で直接摺り写すものです。乾拓は湿拓のような精巧なものはできませんが、短時間で容易にでき、また水に馴染まないものの場合にはこの方法が使われます。
たこひ
多胡碑
群馬県吉井町にある碑で、和銅四年(711)三月九日にこの地に多胡郡を設置したことを記してあるものです。中国六朝<りくちょう>書風を思わせる優れた書で、一文字が六cmほどの大きさで書かれています。現在、同地に多胡碑記念館が建てられ大切に保管されています。
たちばなのはやなり
橘逸勢
橘逸勢(?~842)は平安時代初期の人で三筆の一人に数えられます。延暦二十三年(804)に空海<くうかい>や最澄<さいちょう>らとともに留学生として遣唐使船で中国に渡り、二年後に帰国しています。才能豊かな逸勢のことを唐の人々は「橘秀才」と呼んだそうです。
逸勢は書の才能に恵まれ多くの宮殿の門額を揮毫したといわれます。その書とされるものに「伊都内親王願文<いとないしんのうがんもん>」があります。
ためがき
為書
落款の書き方の一つで、依頼されて書を揮毫した場合や人に書を贈る時に、依頼主や贈る人の名前を書くことです。「為○○誰々書」などと書くことから、為書といわれます。為の字の他には、属の字を使い「○○属誰々書」と書きます。属は嘱と同じで依頼されたということです。
たんざく
短冊
主に和歌や俳句を書くときに用いる料紙で、短尺・短籍・単尺などとも書きます。大きさは縦三六cm、横六cmのものが一般的です。
ちょうきょく
張旭
張旭(生没年未詳)は中国・唐時代七~八世紀の人で、草書の名人として知られていますが、残念ながら張旭の草書として信頼できるものはありません。酒を好んで大酔してはところ構わず字を書いたといわれます。またある時は頭の髪に墨をつけて書いたようで、そのため「張顛<ちょうてん>」といわれています。
ちょうしけん
趙之謙
趙之謙(1829~1884)は字<あざな>はき叔<きしゅく>、悲<ひあん>などの号があります。清朝末期を代表する書人で、書・画・篆刻に優れた才能を発揮しました。
その書は北魏の碑や造像記をもととし、逆入平出<ぎゃくにゅうへいしゅつ>(起筆を逆筆で入り、収筆は普通に抜く)という方法を用いて、ダイナミックで雄渾な書を遺しています。
ちょうせき
鳥跡
中国の古代、蒼頡<そうけつ>という人が鳥の足跡を見て文字を作ったという伝説があり、そこから文字のことをいうようになりました。
ちょうもうふ
趙孟頫
趙孟頫(1254~1322)は宋<そう>から元<げん>にかけての人で、字<あざな>は子昂<すごう>です。宋の皇族の出ですが、二十六歳のときに宋が滅び、元のフビライハンに取り立てられて元に仕え、高官として優遇されました。
趙孟は、王羲之<おうぎし>の書を習い、形の整った美しい書を多く遺しています。かれの書名は当時から高く、元時代はもとより明時代に至るまで尊ばれました。
我が国においてもその書は唐様<からよう>として流行しましたが、宋・元の二朝に仕えたとして非難する者もいたようです。幕末の水戸藩士藤田東湖<ふじたとうこ>が趙孟の手本を机の下に置いて手習いをした、という話が伝わっています。
代表作として、行書に「蘭亭十三跋<らんていじゅうさんばつ>」「与中峰明本尺牘<よちゅうほうもうほんせきとく>」、碑書に「玄妙観修三門記<げんみょうかんじゅうしゅうさんもんき>」「仇鍔墓碑銘<きゅうがくぼひめい」>、小楷<しょうかい>(細字の楷書)に「漢汲黯伝<かんきゅうあんでん>」があります。
ちょうもうりょうひ
張猛龍碑
北魏時代の正光三年(522)に刻されたもので、張猛龍という人の徳を称えるために建てられた碑です。

その文字は線が力強く暢びやかで、巧みな筆づかいによる変化に富んだものです。横画は右上がりが顕著ですが見事なバランスを保っています。六朝<りくちょう>楷書の頂点に位置するもので、北魏を代表する名品です。
ちょうわたい
調和体
漢字とかなを調和よく書いた書をいいますが、それぞれの会派によって呼び名が異なり、現在では「漢字かな交じり書」がその総称として使われています。
調和体という名称は、尾上柴舟<おのえさいしゅう>(1876~1957)によってはじめて唱えられましたが、これは「粘葉本和漢朗詠集<でっちょうぼんわかんろうえいしゅう>」の書を基としたものでした。
第二次世界大戦後、漢字かな交じり書への関心が高まり、それぞれの立場において制作されましたが、いくつかの名称が生まれることになりました。漢字かな交じり書は一般の方々にも読み易く、表現方法も多彩で今後大いに発展してゆく部門と考えられます。
ちょくひつ
直筆
用筆法の一つで、紙に対して筆を真直ぐに立てて書くことで、側筆<そくひつ>(筆の軸を傾けて書くこと)に対する語です。直筆を用いると鋒先が画の中央を通り、鋒から墨がまんべんなく点画にゆきわたって筆力が出、深みのある線を書くことができます。最も基本的な用筆法といえます。
ちょすいりょう
褚遂良
遂良(596~658)は隋から唐時代初期にかけての人で、初唐の三大家の一人に数えられます。虞世南<ぐせいなん>亡き後、唐太宗<とうたいそう>の侍書となり、書の鑑識にも優れた彼は太宗の絶大なる信任を得ましたが、太宗没後、武昭儀<ぶしょうぎ>(のちの則天武后<そくてんぶこう>)を高宗<こうそう>の皇后とすることに反対したことにより左遷され、不遇のうちに亡くなりました。
その書に「伊闕仏龕碑<いけつぶつがんひ>」「孟法師碑<もうほうしひ>」「雁塔聖教序<がんとうしょうぎょうじょ>」(以上すべて楷書)などがあります。それぞれ趣きを異にしますが、中でも雁塔聖教序は細身の線でありながらしなやかな強さがあり、字形も美しく彼一代の傑作というばかりでなく、書道史上の最高の名品の一つです。他に行書の作品として「枯樹賦<こじゅのふ>」「文皇哀冊<ぶんこうあいさく>」があります。
ちらしがき
散らし書き
かなの作品で和歌や俳句などを書く場合、行に高低や長短をつけたり、行間を広く或いは狭くするなどして文字を紙面に散らして書くことです。行の高さや行間を揃えて書く場合に比べて変化に富んだ美しい表現ができます。
平安時代の遺品としては、三色紙(寸松庵<すんしょうあん>色紙・升<ます>色紙・継<つぎ>色紙)の散らしは非常に巧妙で、それぞれ独特の美しさを持っています。
ついふく
対幅
二幅で一対となる書画の掛物のことで、双幅<そうふく>ともいい、中国では対聯<ついれん>或いは楹聯<えいれん>(楹は柱のことです)といいます。
書の対幅の場合は、「春風桃李花開日、秋露梧桐葉落時」のような対句を書くことが多くあります。絵画においては三幅対のものも少なくありせん。また、寺院の本堂などの正面の柱の左右に、細長い板に対句の文字を刻して掛けてあるものを見かけますが、これが楹聯です。このほか、四幅対・六幅対・八幅対などというものもあります。
つぎしきし
継色紙
平安時代の三色紙の一つで、ほぼ正方形の冊子本<さっしぼん>(巻物でなく、綴じてある本)の見開き二ページにわたって歌一首を散らし書きにしたもので、二枚の色紙を継いで書いたように見えることからこの名があります。
その書は、変化に富んだ線と字形、洗練された散らしの技巧と余白の美しさがあり、格調の高さは平安朝随一といわれます。十世紀の半ばころの書写と推定されています。
ていかりゅう
定家流
藤原定家<ふじわらのさだいえ>(1162~1241)を祖とする書流のことです。定家は『新古今和歌集』の撰者を勤めた当時の歌壇の第一人者で、歌学者としても優れており、後世の歌道に絶大な影響を与えています。
その書は、扁平で筆圧の強弱のはげしい独得のもので、定家自身も書については自信がなかったようですが、定家を尊崇する人々によってその書風が継承されてきました。この定家流を書いた人としては、江戸時代の小堀遠州<こぼりえんしゅう>が有名です。
ていぎかひ
鄭羲下碑
北魏時代(511年)に刻された摩崖碑<まがいひ>(天然の崖壁や石に刻したもの)で、山東<さんとう>省の雲峰<うんぽう>山にあります。鄭文公<ていぶんこう<下碑ともいわれます。書者は鄭道昭<ていどうしょう>で、父親の鄭羲を讃える文章が書かれています。下碑というのは、これ以前に書いたほぼ同文の上碑といわれるものがあるからで、上碑は天柱<てんちゅう>山にあります。
清時代の包世臣<ほうせいしん>が「篆書の勢、隷書の韻、草書の情がすべて具<そな>わっている」と賞賛しています。その文字は、気宇が雄大で筆力があり、書道史上において屈指の名品です。
ていどうしょう
鄭道昭
中国・北魏時代の人で、名門の家に生まれ、特に書に優れています。その書と考えられるものに、鄭羲下碑<ていぎかひ>、論経書詩<ろんけいしょし>をはじめとして二十数種類ありますが、それらはすべて摩崖<まがい>(天然の崖壁や石)に刻されたもので、山東<さんとう>省の雲峰<うんぽう>山や天柱<てんちゅう>山などに多く遺されています。
その書は、強靭な線による、懐の広い気宇の大きなもので、鄭羲下碑・論経書詩は書道史上の名品です。明治時代にこれらの拓本が日本にもたらされ、我が国の書家たちに多大の影響を与えています。
てかがみ
手鑑
平安時代を中心とする優れた筆跡、古筆<こひつ>の断簡である古筆切ぎれを鑑賞用として厚手の紙で作られた折帖に貼り込んだもので、古筆手鑑ともいいます。
茶道の普及によって茶室の掛物として古筆が切断されて多くの古筆切が生まれ、これを鑑賞するために手鑑が作られました。また古筆の鑑定を業とした古筆家では、鑑定にあたっての指針としていました。江戸時代初期に流行しましたが、実際に古筆切を集めることは容易でなく、そのため「慶安手鑑<けいあんてかがみ>」という木版本も作られました。
でっちょうぼんわかんろうえいしゅう
粘葉本和漢朗詠集
平安時代に書写された『和漢朗詠集』の完本<かんぽん>(本文に逸脱のない完全な本)で、粘葉装<でっちょうそう>という装丁の冊子本であることから、この名に呼ばれます。その書は端正で品格があり、漢字とかなの調和に優れています。書かれている料紙も唐紙<からかみ>と呼ばれる美しい装飾のあるもので、平安朝屈指の名品として知られています。
また、昭和の初期に尾上柴舟<おのえさいしゅう>によって提唱された調和体<ちょうわたい>(漢字とかなを調和よく書いた漢字かな交じり書)は、この粘葉本和漢朗詠集の書がもとになっています。
てらこや
寺子屋
江戸時代に普及した庶民の教育機関で、「読み・書き・そろばん」(読書・習字・計算)といわれる教育が施されました。もとは寺院で手習いを教えたことから寺子と呼ばれ、江戸時代になってから寺子屋といわれるようになったと考えられています。寺子屋での習字の手本は、往来物<おうらいもの>といわれる書簡文体のものが主で、文字を習うとともに社会生活に必要な知識や礼儀作法を教えました。
てんこく
篆刻
篆書<てんしょ>(最も古い書体で、主に秦<しん>時代〈BC221~BC206〉に使われました。またこれ以前の書体を総称して言う場合もあります)を石や木などに刻したもので、印のことです。書体は基本的に篆書が使われますが、他の書体のものもあります。篆刻は、その大きさから「方寸の芸術」といわれる、一つの芸術ですが、また雅印として書の作品になくてはならないものです。
中国の代表的な篆刻家として、清<しん>時代の鄧石如<とうせきじょ>・徐三庚<じょさんこう>・趙之謙<ちょうしけん>・呉昌碩<ごしょうせき>らがおり、日本には、河井廬<かわいせんろ>・初世中村蘭台<なかむららんたい>・二世中村蘭台・山田正平らがいます。
てんしょ
篆書
最も古い書体で、秦<しん>の始皇帝<しこうてい>が文字の統一のために作った小篆<しょうてん>といわれるもので、主に秦時代(BC221~BC206)に使われました。またこれ以前の書体を総称して篆書という場合もあります。
殷時代後期(BC1400ころ~BC1100ころ)の亀の甲羅や獣の骨に刻まれた甲骨文<こうこつぶん>、殷時代後期から周時代(BC1100ころ~BC222)の青銅器に鋳込まれた金文<きんぶん>なども篆書の仲間です。
とうきしょう
董其昌
董其昌(1555~1636)は字<あざな>は玄宰<げんさい>、号は思白<しはく>、中国・明時代後期を代表する書家です。董其昌は、顔真卿<がんしんけい>・鍾<しょうよう>・王羲之<おうぎし>等の書を学んでその精神を汲み、洗練された瀟洒な書風を打ち立てました。代表作に「行草詩巻」があります。また、清朝の康煕<こうき>帝がその書を酷愛したため、清時代を通じて董其昌の書風が非常に流行しました。
とうけん
唐硯
中国製の硯のことで、端渓<たんけい>硯・歙州<きゅうじゅう>硯・澄泥<ちょうでい>硯などがあります。
とうけん
陶硯
土を焼いて作った硯のことで、中国では漢時代から作られはじめたようです。我が国においては、奈良時代から平安時代にかけて盛んに写経が行われましたが、これには多く陶硯が使われました。奈良県の平城宮や宮城県の多賀城址から多くの陶硯が出土しています。
とうせきじょ
鄧石如
鄧石如(1743~1805)は清時代の書家で、号の完白<かんぱく>山人から、完白と呼ばれます。一生仕官せず、書や篆刻によって生計を立てました。
各書体をよくしましたが、特に篆書・隷書に秀で、それまでにない雄渾な書を遺しています。また篆刻にも優れ、斬新な作品で知られています。清朝第一の名手という評価があります。
とうだいじけんもつちょう
東大寺献物帳
光明<こうみょう>皇后によって聖武<しょうむ>天皇遺愛の品が東大寺へ献納された時の目録です。現在五巻が正倉院に保管されています。その中の一巻は、「大小王真跡帳」といわれ、王羲之・王献之の書跡が記載されています。
とうたいそう
唐太宗
唐太宗(597~649)、名は李世民<りせいみん>、唐の第二代の皇帝です。自らも書をよくし、王羲之<おうぎし>を尊崇してその書を多く集め、特に蘭亭叙を酷愛して多くの書人に模本を作らせましたが、真跡は遺言によって太宗とともに埋葬されてしまったということです。
太宗の書の遺品として、「晋祠銘<しんしめい>」「温泉銘<おんせんめい>」がありどちらも行書で書かれていますが、特に「晋祠銘」は最初の行書碑といわれます。
とうぼく
唐墨
中国製の墨のことです。中国の墨の歴史は古く、殷時代後期(BC1400ころ~1100ころ)の陶器に墨書したものが見つかっていますので、この時代にはすでに墨があったと考えられますが、それがどのようなものだったのかよく分かりません。
唐墨の古い遺品としては、我が国の正倉院に収蔵されているものがありますが、長さが三十cmもあり、唐時代・開元四年(716)という朱書があります。この年は有名な玄宗皇帝が即位して間もないころにあたります。
なお、唐墨は「からすみ」とも読みますが、鰡<ぼら>の卵巣を塩漬けにして干した子<からすみ>を「からすみ」というのはその形が唐墨に似ていることからきています。
なかばやしごちく
中林梧竹
中林梧竹(1827~1913)は幕末から明治時代の書家です。肥前国(佐賀県)の生まれで、書は若くして市河米庵<いちかわべいあん>について学びました。明治十五年中国に渡って潘存<はんそん>に師事し、二年後多くの碑の拓本を携えて帰国しました。その書は、篆・隷・楷・行・草すべてわたり独得の作品を遺しています。また著に『梧竹堂書話』があります。
なかむらふせつ
中村不折
中村不折(1866~1943)は洋画家で、書にも深い造詣がありました。六朝風の独特の書を書くとともに、中国の碑法帖を多く収集し、昭和十一年に書道博物館(現、台東区立書道博物館)を設立しました。森外が生前、自らの墓の文字は中村不折の字を刻すように遺言したそうです。
ながやおうがんきょ
長屋王願経
長屋王(ながやのおおきみ、とも・684~729)は、天武天皇の孫で仏教を篤く信仰し、二度にわたって『大般若経<だいはんにゃきょう>』(六〇〇巻)の書写を行っています。
はじめは、和銅<わどう>五年(712)に天武天皇の菩提を追福して、
次は神亀<じんき>五年(728)に父母の菩提を追福して行われました。
前者を和銅経、後者を神亀経と呼び、合わせて長屋王願経といいます。いずれもしっかりとした骨格の書で、奈良時代の数多くの写経のなかでも傑作の一つです。
なにわづ
難波津
平安時代の手習い用のことばで、「難波津に咲くやこの花冬ごもり今を春べと咲くやこの花」の歌を指します。
『古今和歌集』の仮名序に「うたのちちははのようにてぞ、てならふ人の、はじめにもしける」(歌の父と母のように尊重され、習字をする人が最初に習うものとしている)とあり、古くから手習い用の手本として使われていたことがわかります。また、『源氏物語』(若紫)には「なにはづをだにはかばかしう続け侍らざめれば」(まだ難波津の歌さえも満足に続け書きができないようですから)などの記述があります。
におう
二王
中国・東晋時代の王羲之<おうぎし>・王献之<おうけんし>父子のことで、王羲之を大王、王献之を小王といい、どちらも非常に書に優れていたので合わせて二王と呼んで尊崇されています。
ぬきなすうおう
貫名菘翁
貫名菘翁(1778~1863)は江戸時代末期の能書家で、幕末の三筆の一人です。菘翁は、中国の書を学んだほか、空海をはじめとする日本の書も学びました。
その書は字形がよく整い洗練された高雅なものです。明治時代に日下部鳴鶴によって真価が伝えられ、その書が高く評価されています。代表作に、「白玉井銘<しらたまいめい>」「左繍叙稿<さしゅうのじょこう>」などがあります。
のうしょ
能書
書がうまい人のことをいい、能筆<のうひつ>・能書家ともいいます。古い時代では、中国においても日本においても専門の書家がいたわけではなく、僧侶・貴族・役人といった人が教養として書を習い、その中から能書の人々が現れ素晴らしい書が遺されているわけです。
はたく
波磔
画の右払いのことで、波のような形と動きからいわれます。また波法<はほう>・波勢<はせい>ともいいます。この波磔は、八分<はっぷん>と呼ばれる隷書において顕著に現れ、礼器<れいき>碑・曹全<そうぜん>碑をはじめとする後漢時代の隷書碑に美しい姿を遺しています。
はっぷん
八分
隷書の一種で、波磔<はたく>(画の右払いで波のように見えるもの)を持つものです。これに対して波磔のないものは古隷<これい>と呼ばれます。
八分といわれるのは、八の字のように左右に分かれるような勢いを示していることからという説が一般的です。
はんせつ
半切
条幅の形式として最も一般的なもので、半折とも書きます。画仙紙の全紙を縦半分にしたものです。寸法は普通、縦一三六cm、横三五cmです。
ひだいてんらい
比田井天来
比田井天来(1872~1939)は明治・大正・昭和にかけての書家で、現代の我が国の書道界に大きな影響を残しています。日下部鳴鶴<くさかべめいかく>に書を学び、陸軍幼年学校などで書を教える傍ら、中国からもたらされた拓本や法帖の研究に励みました。
また、書学院を設立し後進の育成に努めるとともに、古法帖を出版するなど古典の普及にも力を尽くし、昭和十二年に、尾上柴舟<おのえさいしゅう>とともに帝国芸術院会員に推挙されました。
ひつあつ
筆圧
筆の鋒先<ほさき>から紙面に加えられる圧力のことで、筆圧が強いと線はきびしく深くなり、筆圧が弱いと線は甘く浅くなってしまいます。
ひつい
筆意
筆によって書かれた文字に込められた筆者の気持・気分をいいます。
ひっしゃたい
筆写体
筆写体は、書写体ともいいますが、活字体に対する言葉で、手書きの文字を指していいます。文字の書写に際しては、書き易くしかも美しく見えることが大切で、活字体とは違った字体で書くことがあります。
この筆写体の歴史は古く、中国・六朝<りくちょう>時代から唐<とう>時代にかけての碑や写経の文字の中にさまざまなものが見られます。現在の活字のもとになったものは唐時代の顔真卿<がんしんけい>の楷書と考えられていますが、顔真卿は楷書を書くにあたって字体を篆書に求めたために、当時書かれていた楷書よりもずっと遡った古い字体のものになってしまいました。その結果、筆写体と活字体の字体が違うものが生じてしまったのです。
次に具体的な例を見てみます。それぞれ筆写体で書かれた従・所・能の文字です。
ひっせい
筆勢
書の作品に現われた筆の勢い、運筆の勢いのことで、筆力ともいいます。
ひょうぐ
表具
書画を保存や展示の目的で掛軸や額装にすることで、表装ともいいます。表具の第一段階は裏打ちで、これは本紙<ほんし>
(書画の作品のこと)の裏に和紙を貼る作業です。これによって本紙が丈夫になり折れやしわも取れます。掛軸の場合は薄い紙で、額装や屏風などには厚目の紙を使います。
また、特に掛軸の場合には、これに使う裂<きれ>(布のこと)の良し悪しや配色、寸法などによってその出来具合が左右されるので、表具師の腕が問われるところです。
ふうしんじょう
風信帖
空海<くうかい>(774~835)が最澄<さいちょう>(767~822)に宛てた手紙三通のことで、第一通の書き出しに「風信雲書」とあるのでこう呼ばれます。弘仁三、四年(812、813)ころ、空海が四十歳前後に書かれたものです。空海の書の中で最も有名で、かつ最も優れたものです。
手紙ということからそれほど構えて筆を執ったものとは思われませんが、洗練された筆づかいで、高雅な趣きがあり日本書道史上においても最高の名品の一つです。
ふじわらのさだいえ
藤原定家
藤原定家(1162~1241)は鎌倉時代初期の公卿・歌人で、藤原俊成<としなり>の子です。当時の代表的な歌人として活躍し、『新古今和歌集』の撰者を勤めています。
定家はまた、『古今和歌集』『源氏物語』『更級日記』などおびただしい古典の書写・校訂に励みました。現在我々がこれらの古典文学を活字本として読めるのは定家のおかげといっても過言ではありません。
定家の書は自ら言うようにけっしてうまい字ではありませんが、扁平で独特なその書は歌人として定家を尊崇する意味から、「定家<ていか>流」といわれ時代を超えて多くの追随者を輩出しました。
ふじわらのすけまさ
藤原佐理
藤原佐理(944~998)は平安時代中期の公卿で、三跡<さんせき>の一人に数えられます。佐理は関白を勤めた藤原実頼<さねより>を祖父に持つ名門の家に生まれましたが、それほど際立った昇進はせず、やはりその書の才能によって広く知られています。
佐理は名門の出でありながら少し変わった性格だったようで、『大鏡』には佐理を評して、「御心ばえぞ、懈怠者<けたいしゃ>、…」(ご性格は、なまけもので…)と記されています。しかし、その書については同じ『大鏡』で「世の手書<てかき>の上手」「日本一の御手」と評されています。その書は流麗でありながら自由奔放な暢達した筆致で、彼のものに拘らない大らかな人柄が出たものではないかと思われます。
佐理の書の遺品に「詩懐紙<しかいし>」「離洛帖<りらくじょう>」「恩命<おんめい>帖」「国申文<くにのもうしぶみ>帖」などがあります。
ふじわらのゆきなり
藤原行成
藤原行成(972~1027)は平安時代中期の公卿で、三跡<さんせき>の一人です。行成は名門の家に生まれましたが、祖父である摂政太政大臣伊尹これただ、父の少将義孝<よしたか>ともに幼少の頃に亡くしたため、不遇な青年時代を過ごしました。
しかし行成の秀れた人格が認められ、二十四歳ころからは順調に昇進し、父のいとこに当たる時の最高権力者藤原道長に重用され、有能な役人として活躍しています。
行成は王羲之<おうぎし>の書を手本としましたが、小野道風<おののみちかぜ>の影響を強く受けています。行成の生まれる六年前に他界している道風には直接会っていませんが、行成のある日の日記には「この夜夢で道風に会い、書法を授けられ、雑談した」という記事がありますが、いかに道風を尊敬していたかがわかります。
行成は、道風の創始した和様の書をさらに洗練し、明るく瀟洒な書を創り上げ、和様書の完成者といわれています。その書に「白氏詩巻<はくししかん>」「本能寺切<ほんのうじぎれ>」などがあります。
ふち
布置
字配りのことで、紙面に文字をどのように配置するかということです。
ふで
「筆」という字は竹冠に「聿」ですが、もともとは「聿<いつ>」が「ふで」を意味する文字です。のちに竹冠を加えて「筆」の字になりました。
【筆の歴史】
現在見ることのできる最も古い漢字である甲骨文<こうこつぶん>(殷時代後期〈BC1400ころ~BC1100ころ〉の亀の甲羅や獣骨に刻まれた文字)の中に「聿」の字があり、それは手で筆を持つ形を表しています。このことから、殷代にはすでに筆があったことがわかりますが、残念ながらこの時代の筆の遺品は見つかっていません。
現存する最も古い筆の遺品は、中国湖南省長沙近郊の戦国時代の楚の国の墓から発見されたもので、うさぎの毛と木の軸で作られており「長沙<ちょうさ>筆」と呼ばれます。
次に古い筆の遺品として、西域の内蒙古自治区の居延で発見された後漢時代(25~220)のものがあり、「居延<きょえん>筆」といわれます。
唐時代(618~907)になるとさまざまな種類の筆があったようで、八世紀の李陽冰<りようひょう>という人の著書に「筆は大小・硬軟・長短のものをそれぞれの好みにしたがって使った」と書かれています。
また、「弘法<こうぼう>筆を択<えら>ばず」という諺で知られる空海<くうかい>(弘法大師)は、遣唐使として中国に渡り仏教や書道を学びながら筆の作り方も研究し、日本に帰ってきてから嵯峨天皇に筆を作って献上しています。その時の『狸毛筆奉献表<りもうひつほうけんひょう>』によれば、真(楷)書・行書・草書・写(写経)書用という四本の筆が献上されていますので、書体や書風によっていろいろな筆が使われていたことがわかります。


【筆の種類】
筆は使われている毛の材質や形・大きさによってさまざまに分類されます。まず主な毛の材質とその特徴を見てみます。
■羊毫<ようごう>(毫は、毛あるいは筆の鋒先<ほさき>のこと)
中国の山羊の毛。日本の山羊ではなく、我が国で作られる羊毫筆も原料は中国から輸入したものです。柔らかい毛で墨の含みがよく、現在最も多く使われています。
■兎毫<とごう>
うさぎの毛。紫毫<しごう>ともいいます。硬い毛で、強い弾力をもっています。羊毫と混合して使われることも多く、
「七紫三羊」(兎毫が七割、羊毫が三割)
「五紫五羊」(兎毫と羊毫が五割ずつ)などがあります。
■狸毫<りごう>
たぬきの毛。弾力があって美しい線が出せるので多くかな用筆として使われます。
■狼毫<ろうごう>
おおかみと書きますが、いたちの一種の毛といわれます。鋒先がよく利くので細楷や中字に向いています。
■馬毫<ばごう>
馬の毛。腰が強く、また長いものが取れるので多く大筆に使われます。
次に、毛の硬さによって
■柔毫<じゅうごう>筆…主に羊毫のように柔らかい毛を用いたもの。
■剛毫<ごうごう>筆…兎毫・狸毫などの硬い毛を用いたもの。
■兼毫<けんごう>筆…柔毛と剛毛を混合したもの。
の三つに分けられます。柔らかい羊毫は使いこなすのが難しいですが慣れると深い味わいの線が書けます。剛毫は強い線が書けますが深みの表現がしにくく、その点兼毫は両方の特徴を備え比較的書きやすく初心者に向いています。
また、鋒の長さによる分類があり、これは鋒の直径と長さの比率によっています。
1.長鋒<ちょうほう>…直径の六倍以上のもの。
2.中鋒<ちゅうほう>…直径の四~五倍のもの。
3.短鋒<たんぽう>…直径の二~三倍のもの。
さらに、号数によって筆の大きさを表します。大きな方から特号・一号・二号・三号~十号まであります。
ぶんかんふはく
分間布白
点画と点画の間隔を整え(分間)、その間に生ずる余白を均しくする(布白)ことで、間架結構<かんかけっこう>ともいいますが、楷書を主として考えられています。
ぶんちょうめい
文徴明
文徴明(1470~1559)は中国・明時代の人で、明時代中期を代表する書家です。彼は、はじめは書がうまくなく、大変な努力によって書の大家となりました。性格的にも非常に真面目で、清廉潔白な人柄だったようです。
書は王羲之<おうぎし>を中心とする晋代や唐代の書を学びましたが、
元<げん>の趙子昂<ちょうすごう>を最も尊敬して模範としました。行草書と小楷<しょうかい>(細字の楷書)に秀れ、端正で字形の整った書を多く遺しています。その書として小楷の「離騒<りそう>」や「行書千字文」があります。また文徴明の書風は、我が国においても江戸時代に唐様<からよう>の書として非常に流行しました。
ぶんぼうしほう
文房四宝
文房とは文人の書斎のことで、そこでの読書や執筆に必要な用具が文房具です。その中で最も大切な筆・墨・硯・紙を特に「文房四宝」といって尊重しています。
へいけのうきょう
平家納経
平清盛<たいらのきよもり>が平家一門の繁栄を祈願して、長寛二年(1164)に安芸国<あきのくに>(広島県)の厳島<いつくしま>神社に奉納した写経で、『法華経<ほけきょう>』や『無量義<むりょうぎ>経』など三十三巻あります。清盛はじめ、子の重盛<しげもり>など一門の者がそれぞれ分担して書写しているもので、国宝に指定されています。
平家納経は各巻ともに、表紙・見返し・料紙、また軸や紐に至るまでその当時の最高の技術が施された、極めて華麗なものです。このような写経を装飾経といいますが、まさに平家納経は装飾経の最高のものといえます。
べいふつ
米芾
(1051~1107)は宋時代の人で、字<あざな>は元章<げんしょう>、宋四大家の一人に数えられます。米は、古典を徹底的に研究し、宋四大家の中でも技術的に最も優れていますが、また書画の鑑定にかけても定評があり、鑑識眼は中国書道史上で最高といわれています。
米の書の作品としては、「蜀素帖<しょくそじょう>」「渓詩巻<ちょうけいしかん>」「虹県<こうけん>詩巻」「行書三帖」「草書四帖」などがあり、他に尺牘<せきとく>(手紙)も多く遺されています。
へんがく
扁額
横長形式の額のことで、社寺の門や堂宇に掲げられているものがよく見られます。社寺では多く木額で墨書したものや刻したものがあります。
紙に書いたものは表装して額に入れ、また木に刻したものは文字や地の部分に彩色することがあります。
へんたいがな
変体仮名
現在「平がな」といえば、「あ」から「ん」に至る四十八文字のことですが、もともとは草仮名<そうがな>(漢字の草書体の段階のかな)をさらに書き崩した平易なかなを「平がな」といい、一音に対していくつかの文字がありました。
それが明治三十三年の「小学校令施行規則」によって一音に対して一字と定められ、四十八文字が平がなとなってからは、それ以外の文字は「変体仮名」と呼ばれるようになりました。日常生活では「平がな」しか用いられませんが、書の作品においては変体仮名が使われ、それによって変化に富んだ作品ができるわけです。巻末の「変体仮名一覧」を参照してください。
ほうじょう
法帖
法帖というのは書跡の複製本のことで、書道の手本や鑑賞用になる古人の優れた筆跡を模写したりして作られたもので、双鉤填墨<そうこうてんぼく>(筆跡を敷き写しにして文字の輪郭をとり〈双鉤〉、その中を墨で塗りつぶして〈填墨〉、もとの文字とそくりなものを作ること)などによって模本を作成して手本としました。
やがてこれを木や石に刻して原版を作り、その拓本をとって帖に仕立てるようになりました。これを刻帖といい、一度に多数のものを作ることができることから盛んに作られるようになりました。
この法帖には、いろいろな人の書を集めた集帖<しゅうじょう>、一個人の書のみを集めた専帖<せんじょう>、一作品のみの単帖<たんじょう>があります。このうち集帖では、宋時代(十世紀末)の『淳化閣帖<じゅんかかくじょう>』が最も優れているもので、以後これを元にして数多くの法帖が作られました。
ほうひつ
方筆
円筆に対する語で、筆管<ひつかん>(筆の軸)をやや傾けて鋒先<ほさき>を外に出すようにして運筆すると点画は角張った感じになります。方筆で書かれた文字は鋭く力強いものとなります。北魏の龍門造像記が方筆の代表的なものです。
ほうりゅうじこんどうしゃかぞうぞうき
法隆寺金堂釈迦造像記
法隆寺金堂にある釈迦三尊像の光背裏面中央に鋳込まれた銘文で、本格的な漢文で綴られています。銘文は一行十四字で十四行あり正方形に収まるように整えられています。その文字は中国・六朝風の優れたもので、また聖徳太子・法隆寺研究の基礎資料として重要です。
ぼくせき
墨跡
墨跡というのは、もともとは墨書されたものすべてを意味する言葉ですが、ふつう墨跡といえば、臨済<りんざい>宗を主とする禅宗の僧侶の筆跡を指します。この墨跡は、茶道の世界では茶室の掛物として第一とされています。
墨跡の書は、書道の技術的な面から見れば必ずしも優れたものばかりではありませんが、禅僧の厳しい修行から生まれた人間性や、そこに見られる覇気といったものが尊重されるのです。
中国の宋<そう>・元<げん>時代の禅僧の墨跡が特に重んぜられ、また我が国の禅僧では、宗峰妙超<しゅうほうみょうちょう>(大燈国師<だいとうこくし>)や一休宗純<いっきゅうそうじゅん>の墨跡が尊重されています。
ほっけぎしょ
法華義疏
聖徳太子が著した『法華経<ほけきょう>』の注釈書で、太子自筆の草稿本と考えられており、我が国最古の肉筆の遺品です。その書は行書・草書を交え、文字は概して平たく丸みがあり、のびのびとした筆使いで書かれています。
太子は小野妹子<おののいもこ>を遣隋使、けんずいし>として派遣し、中国の文化や文物の将来につとめましたが、この「法華義疏」の書風にも隋の書の影響が見られます。
ほんあみこうえつ
本阿弥光悦
本阿弥光悦(1558~1637)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての能書家・工芸家で、書は「寛永三筆」の一人に数えられます。本阿弥家は、刀の目利<めき>き(鑑定)や磨礪<とぎ>などが家業ですが、光悦は家業に励む傍ら書や蒔絵<まきえ>・陶芸にも優れた才能を発揮しました。
光悦の書は、文字の大小・線の太細・墨の濃淡が顕著な変化に富んだ独特なもので、のちに「光悦流」と呼ばれました。また蒔絵では「船橋蒔絵硯箱」などの傑作を、陶芸においても茶碗の名品を遺しています。元和元年(1615)に徳川家康から京都洛北の鷹が峰の地を与えられ、一族や工匠とともに移住しています。
ほんがんじぼんさんじゅうろくにんかしゅう
本願寺本三十六人家集
京都・西本願寺に伝わる「三十六人家集(歌仙三十六人の家集)」の古写本のことで、平安時代十二世紀の書写と推定されています。もともとは三十九帖(人麻呂<ひとまろ>集・貫之<つらゆき>集・能宣<よしのぶ>集は上下あり)ありましたが、現在は三十二帖の原本と五帖の補写本となっています。貫之集下と伊勢<いせ>集は昭和四年に切断分割され、「石山切<いしやまぎれ>」と呼ばれています。
本願寺本三十六人家集は書の優れていることはもちろんですが、その料紙の装飾技巧は当時の最高の技術が凝らされている誠に素晴らしいもので、非常に高い価値を有しています。また筆跡研究の結果、二十人の人々によって分担して書写されたことがわかりました。
ますしきし
升色紙
平安時代の三色紙の一つで、升形のような方形の料紙に書かれているのでこの名があります。清原深養父<きよはらのふかやぶ>(清少納言<せいしょうなごん>の曽祖父)の家集『深養父集』を書写した断簡で、十一世紀後半の書写と推定されています。
さまざまな散らし書きと、墨色の濃淡や線の太細による変化に富んだ美しさがあります。中には二行を重ね書きにしたものもあり、他にはない独特の表現が見られます。
まな
真名
仮名に対して漢字のことをいいます。また真名を一字一音に使って我が国の言葉を書き表わしたものを真仮名<まがな>といい、男手<おとこで>とも呼ばれました。
まんようがな
万葉仮名
「かな」は中国から渡来した漢字を一字一音に使って我が国の言葉を書き表したものですが、はじめは漢字をそのまま使用していました。これは奈良時代に盛行し特に『万葉集』に多く使われたことから「万葉仮名」と呼ばれ、約一千字近くあります。また、「万葉仮名」を草書で書いたものが「草仮名<そうがな>」で、これをさらに書き崩して簡略化したものが「平がな」です。
この「万葉仮名」を使用した文書が、奈良の正倉院に二通あり、「万葉仮名文書」といわれていますが、どちらも行草体で書かれています。
みずくき
水茎
筆跡のことを意味することばですが、他に筆・消息<しょうそく>(手紙)といった意味もあります。美しい筆跡を「水茎の跡麗<うるわ>しく」などと表現します。水茎がなぜ筆跡などを表わすのかについては定説はありません。
みせけち
見消
見消というのは、誤って書写した文字の傍らに点を打って消したことを表わす方法で、消した文字が見えることから見消といいます。これは誤写した文字を削ったり、墨で塗りつぶしたりすると紙面が汚く見苦しくなることから用いられました。
有名な藤原行成<ふじわらのゆきなり>の「白氏詩巻<はくししかん>」の奥書<おくがき>に、誤って改元前の「長和」という年号を書き、この見消によって「寛仁」に訂正しています。
みどうかんぱくき
御堂関白記
藤原道長<ふじわらのみちなが>(966~1027)の日記で、道長自筆のものが十四巻現存しています。当時の最高権力者の自筆日記が残っているのは極めて貴重なことです。本文は漢文体ですが、ところどころにかな文字が見られます。
みんまつしんしょのしょ
明末清初の書
中国・明時代の末から清時代の初めにかけての書を指していいます。書家として董其昌<とうきしょう>(1555~1636)・張瑞図<ちょうずいと>(1570~1640)・黄道周<こうどうしゅう>(1585~1646)・倪元<げいげんろ>(1593~1644)・王鐸<おうたく>(1592~1652)・傅山<ふざん>(1607~1684)らがおり、それぞれ個性的な行草書の作品を遺しています。
めいげつき
明月記
藤原定家<ふじわらのさだいえ>(1162~1241)の日記のことで、京都の冷泉家時雨亭<れいぜいけしぐれてい>文庫に多くの自筆本が残っています。
定家は鎌倉時代初期の代表的な歌人・歌学者として、源実朝の和歌の師でもあり、その日記は当時の公家と武家の関係を知る上での非常に重要な史料です。
もっかん
木簡
中国で紙が発明される以前の書写材料で、薄く削いだ木片に文字を書いたものです。また竹の場合は竹簡<ちっかん>といいます。木簡や竹簡に書かれた文字は、篆書・隷書・草書・行書などさまざまで、その文字も大変自由に書かれています。我が国においても奈良時代に木簡が使用されたようで、奈良の平城宮などから多量の木簡が発見されています。
やはず
矢筈
掛軸を高い所に掛けるときに使う道具で、細い竹の柄の先に凹形をした金属を取り付けてあります。柄を持って掛軸を吊り上げて釘に紐を掛けるようにします。矢筈はもともとは矢の手元の凹んだ部分のことで、形がこれに似ていることからこう呼ばれます。
ゆういん
遊印
普通印は書者の名や号を刻したものを用いますが、書者の姓名・号ではなく好みの詩句や成語などを刻した印のことをいいます。文人に多く用いられました。
ゆうひつ
右筆
文書<もんじょ>を書くことを仕事とした者のことで、鎌倉・室町・江戸時代において武家の職制として定められ、祐筆とも書かれました。身分の高い武将の文書は普通は右筆に書かせることが多く、何人もの右筆を抱えていた人もいました。
例えば、足利尊氏は十人近くの右筆を抱えていました。文書の本文は右筆に書かせましたが、花押だけは自筆で書いています。なお、江戸幕府においては、機密文書を扱う奥右筆と一般文書を扱う表右筆とに分かれていました。
ようしゅけい
楊守敬
楊守敬(1839~1915)中国・清時代の書学者で、明治十三年に来日した際に携行してきた漢魏の碑・法帖類は、当時の我が国の書道界を一変させたといわれます。日下部鳴鶴<くさかべめいかく>・巌谷一六<いわやいちろく>などが教えを受けました。
らっかん
落款
落款は「落成款識<らくせいかんし>」を略したもので、書の作品を書いて最後に、いつ、どこで、何を、誰が揮毫したかなどを書き入れて作品を完成させることです。
らんていじょ
蘭亭叙
中国・東晋時代の王羲之<おうぎし>(307~365)の書の中で最も有名であると同時に、最高傑作といわれるものです。永和九年(353)に浙江省紹興の蘭亭において催した曲水<きょくすい>の宴<えん>(三月三日に曲折した小川の流れに杯を浮かべ、酒を飲み詩を作る宴会)で、各人が作った詩を集めて一巻とし、それの序文を王羲之が作って書したものです。
王羲之自身はその出来が不満だったようですが、その後何度も同じ文章を書いてみてもこれ以上のものはできなかったという話が伝えられています。その書は行書体を用い、自然な表現で字形や筆使いに微妙な変化のある極めてすぐれたものです。
この蘭亭叙の原本は、唐太宗<とうたいそう>が自分の墓に一緒に埋葬させたといわれており現存しませんが、さまざまな人が臨模<りんも>(原本そっくりに模写すること)したものが百本以上遺されています。
りくちょうのしょ
六朝の書
中国の五世紀から六世紀における、北魏を主とした龍門造像記<りゅうもんぞうぞうき>や鄭羲下碑<ていぎかひ>・高貞碑<こうていひ>などをはじめとする北朝の書をいいます。本来の六朝は、建康<けんこう>(今の南京)に都を置いた三国時代の呉<ご>、ならびに東晋<とうしん>・宋<そう>・斉<せい>・梁<りょう>・陳<ちん>の六つの王朝のこと(南朝ともいう)ですが、書においては同時代の北朝の書を指します。
この六朝書は、明治十三年に清国<しんこく>の楊守敬<ようしゅけい>がもたらした多くの碑法帖によって日本に紹介され、それによって我が国の書道界が一変したといわれるものです。
りもうひつほうけんひょう
狸毛筆奉献表
弘法大師<こうぼうだいし>・空海<くうかい>が、中国で筆の製法を習いそれによって造った狸毛の筆四管を嵯峨天皇に献上した時の書付で、空海の真筆とされています。それによれば、真書(楷書)用・行書用・草書用・写書(写経)用の四本の筆を献上したことがわかります。
よく知られている言葉に「弘法筆を択<えら>ばず」というものがありますが、実際には空海は筆の質については大いに関心があったのではないかと思われます。
りゅうもんぞうぞうき
龍門造像記
龍門は中国・河南<かなん>省洛陽<らくよう>の南の伊水<いすい>という河の両岸で、ここに多くの洞窟が掘られておびただしい仏像とその由来などを記した銘文が造られました。この銘文が龍門造像記といわれます。
またこの龍門は滝のような急流で、ここをのぼった魚は龍になるという伝説があり、このことから出世するための関門として「登龍門」という言葉が生まれました。
北魏時代の五世紀の終わり頃から六世紀にかけて造られたもので、概して力強い線で力にみち、造形も優れた美しさを示しています。数多くの中から、「牛<ぎゅうけつ>造像記」「孫秋生<そんしゅうせい>造像記」「始平公<しへいこう>造像記」などの代表的な名品が「龍門二十品」と呼ばれ尊重されています。
りょうかん
良寛
良寛(1758~1831)は江戸時代の禅僧で、和歌・漢詩・書に優れていました。越後出雲崎に名主の子として生まれましたが、十八歳のころ仏教に志し、二十二歳で大忍国仙<だいにんこくせん>について剃髪、十余年の修行を経て諸国を行脚したのち三十八歳のころ郷里に帰りました。生涯寺を持たず、五合庵などに住み托鉢<たくはつ>の日々をすごし、子供たちと無心に遊んだことがその歌に詠まれています。
良寛の書は、平安時代の「秋萩帖<あきはぎじょう>」や中国・唐時代の懐素<かいそ>の「自叙帖<じじょじょう>」などの影響が指摘されますが、それらを元としながらも独自の書風で書かれた非常に品格の高いものです。その書を求める人が多く、生前から偽物が出回っていたようです。
りょうし
料紙
もともとは、書写の用紙全般をいっていましたが、現在では楮<こうぞ>・三椏<みつまた>・雁皮<がんぴ>などを原料として漉いた和紙になんらかの加工を施したものをいい、かな作品に使用されることが多くあります。
主なものに、唐紙<からかみ>・雲紙<くもがみ>・金銀の箔<はく>を散らした装飾紙などさまざまなものがあります。
りんしょ
臨書
古典(碑や法帖など古人の優れた筆跡)を手本として書を学ぶことで、書道の最も基本的な学習法です。古典をよく観察して、点画・字形・用筆・筆意などを学ぶことは、自己の書を創作する糧となるものです。
一般に字形を主として学ぶものを形臨<けいりん>、筆意を学ぶものを意臨<いりん>、また何回も臨書したあとに手本を見ないで書くことを背臨<はいりん>といいます。
りんち
臨池
書道を学ぶことで、手習い、習字の意です。後漢時代の張芝<ちょうし>(草書の名人)が池に臨んで熱心に書の勉強をし、そのために池の水が真っ黒になった、という故事からきています。
れいきひ
礼器碑
中国・後漢時代の隷書碑で、永寿二年(156)に刻されたものです。字形・用筆が洗練され、線は細身でありながら非常に強く、格調高い美しさを持つもので、漢代隷書碑の最高傑作といわれます。
れいしょ
隷書
中国・漢時代(BC202~AD220)に多く使われた書体で、横画を水平に引くのが一つの特徴で、古隷<これい>と八分<はっぷん>に分けられます。
古隷は、篆書の字画を簡略化し曲線を直線にし実用に適するようにしたもので、八分はさらに洗練され波磔<はたく>(右払いのことで波のような形のもの)のある装飾的なもので漢時代の正式書体として通用しました。
古隷の代表的なものに「五鳳<ごほう>二年刻石」(BC56)「子侯<らいしこう>刻石」(BC16)などがあり、八分には「礼器<れいき>碑」(156)「曹全<そうぜん>碑」(185)「乙瑛<いつえい>碑」(153)など多くのものがあります。
れんめん
連綿
二字以上の文字を続けて書くことです。漢字の草書や、かなの作品ではこの連綿が使われます。特にかな作品においては、連綿を使用することにより、単体<たんたい>(文字を続けず単独に離して書くこと)で書く場合に比べて美しい行の流れが表現できます。
ろうこしいき
聾瞽指帰
空海<くうかい>が、延暦十六年(797)、二十四歳の時に大学を中退して仏道に進むことを宣言するために書いたもので、真筆が現存しています。内容は儒教・道教・仏教の三つを柱に戯曲風に展開し、仏教の優位を説いています。
入唐<にっとう>前の空海の確実な書として唯一のもので、その書には王羲之<おうぎし>の影響が見られますが、力強くダイナミックな書風から、若き空海の仏教にかける意気込みが伝わってくるようです。
わかんろうえいしゅう
和漢朗詠集
平安時代に撰集されたもので、撰者は藤原公任<ふじわらのきんとう>(966~1041)です。また『倭漢朗詠集』とも書きます。「倭(和)」は本朝(日本)のことで和歌をもってし、「漢」は唐(中国)のことで漢詩文をもってしています。また「朗詠」は声高く歌うこと、漢詩文や和歌を声を出して吟ずることで、朗詠に適した漢詩文や和歌を集めたものです。
平安・鎌倉時代の古写本として、『古今和歌集』についで多くのものが遺されており、中でも十一世紀半ばころの書写と考えられる「粘葉本<でっちょうぼん>和漢朗詠集」は、端正温雅で品格があり、またその書かれている料紙も華麗で平安朝屈指の名品です。
わぼく
和墨
中国製の墨に対して、日本製のものを和墨といいます。記録によれば我が国に中国から墨が伝わったのは推古天皇十八年(610)で、高句麗の僧曇徴<どんちょう>が紙とともに製墨法を伝えたとあります。
わよう
和様
中国風の書法である「唐様<からよう>」に対して、日本風の書を「和様」といいます。奈良時代から平安時代初期にかけての我が国の書は遣唐使船によってもたらされた中国文化、書においては王羲之<おうぎし>を中心とする中国の書法の影響が強く、空海<くうかい>や最澄<さいちょう>も中国風の字を書いています。
やがて九世紀の終わり、寛平六年(894)に菅原道真<すがわらのみちざね>の意見によって遣唐使<けんとうし>が廃止され、それまでの中国文化の影響を脱して日本独自の文化が花開きます。この遣唐使廃止の年に生まれた小野道風<おののみちかぜ>(894~966)は、はじめは王羲之の書を習いましたが、そこに日本的な感性を加えて「和様」の書を創始しました。
小野道風の書はゆったりとした伸びやかな線と優雅な字形に特徴があります。この和様の書は藤原行成<ふじわらのゆきなり>(972~1027)によって完成され、我が国の書の主流となり、南北朝時代の尊円<そんえん>親王(1298~1356)の青蓮院<しょうれんいん>流を経て、江戸時代の御家<おいえ>流へと連綿として続いていきます。